第4話 ジュリア視点
セドリックと別れたあと、一人で廊下を歩きながら、ふと先ほどの光景を思い返した。
「レイ……か」
アイーダが何気なく口にしていた呼び名。その響きを反芻した途端、ずっと前のことを思い出す。
『殿下。二人きりのときくらい、もう少し親しみを込めてお呼びしてもよろしいでしょうか』
まだ婚約して間もない頃だった。
愛称で呼び合えば、少しは距離を縮められるかもしれない。そんな期待を込めて尋ねた私に、殿下は首を横に振った。
『将来王族となる君が、公私で呼び方を変えるような癖をつけるべきではない』
もっともな話だと思った。私もいずれ王族の一員となる。その立場を考えれば、幼い甘えのようなことを言うべきではなかったのだと納得した。
「なのに、アイーダ嬢には許すのね……」
口にした途端、私は首を横に振った。
いけない。殿下を疑うなんて。
あれは幼い頃からの呼び名なのだろう。昔を懐かしみ、あの頃と同じように接しているだけだ。
学園を卒業すれば、私たちは婚姻する。そして殿下は将来の即位に向けて、今まで以上に多くの公務を担うことになる。
学生でいられる間くらいは、王太子という立場から離れて過ごしたいだけなのだ。
そう自分に言い聞かせた。
レイナルド殿下とはクラスが違うため、二人が一緒にいるところを毎日目にするわけではなかった。それでも、噂は嫌でも耳に入ってくる。
昼食を一緒に取っているらしい。アイーダが入った乗馬部へ、殿下も顔を出すようになったらしい。
ある日の昼休み、リズベットが私の隣へ勢いよく腰を下ろした。
「ちょっと、ジュリア。あれ見た?」
「何のことかしら」
「殿下よ。あの堅物が、アイーダ嬢にはあんな顔するのね」
「……あなたも見たのね」
「というか、もうみんな見てるわよ。あんな堂々と一緒にいれば当然でしょう。どういうことなの?」
「殿下の幼馴染みたいよ。学生でいられる間は、王太子という立場から少し離れて、彼女と昔のように過ごしたいのですって」
「はあ? ちょっと待って。何よ、その話。自分勝手すぎない?」
「殿下は、卒業すればきちんと私との将来に向き合うと仰っているわ。それに彼女とは、あくまで昔の友人として――」
「そう見えないから言ってるんだけど」
「っ……」
リズベットは呆れたように息を吐いた。
「というか、それを許したの? ジュリアが?」
私は頷くしかなかった。
ある日、王宮で顔を合わせた際、私は思い切って尋ねた。
「殿下……アイーダ嬢には、ご自分のお気持ちを伝えていらっしゃるのですか?」
レイナルド殿下は少しだけ目を見開いた。
「いや」
「そうなのですか?」
「ああ。彼女に余計な負担をかけたくない」
――私には、いいのですね。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。
そんなことを言ってはいけない。
だって――。
「ジュリア」
王宮を辞するとき、馬車へ乗り込もうとした私に殿下が手を差し出した。
「ありがとうございます」
以前なら、ただ儀礼として差し出されているように感じていたのに、最近は違った。
私を見る目が、少し柔らかくなった気がする。馬車へ乗るまでの短い間にも、殿下の方から言葉をかけてくださるようになった。
「王太子妃教育は順調か?」
「はい。最近は南部諸国について学んでおります」
「そうか。あの地域は言語も複雑だからな。無理はするな」
「……はい」
以前なら、殿下からこんな言葉をかけていただけることなど、ほとんどなかった。
それなら、いいではないか。
少なくとも以前より、殿下との距離は近づいている。
私は婚約者で、いずれ王太子妃になるのだから、殿下の気持ちも、それによって生じる苦しさも受け止めるべきなのだ。
その日の王太子妃教育を終えたあと、王妃陛下に呼び止められた。
「ジュリア。少しよろしい?」
人払いをした小さな応接室へ通される。席に着くと、王妃陛下は困ったように息をついた。
「レイナルドと、ベクター子爵令嬢のことです。わたくしからも、あの子には注意しました」
「王妃陛下……お気遣いくださり、ありがとうございます」
「いいえ。これは王家の問題でもあります。ですが、『ジュリアは理解してくれている』の一点張りで……」
王妃陛下は額に手を当てた。
「あの子は、我が子ながら昔から本当に手のかからない子でした。どれほど忙しくても弱音を吐かず、勉強も公務も、与えられたものは淡々とこなしてきたのです」
レイナルド殿下は幼い頃から王太子として教育を受け、各地への視察にも同行し、年齢に見合わない責任を負ってきた。それでも殿下が不満を口にするところを、私もほとんど見たことがない。
「だからこそ、わたくしたちも戸惑っているのでしょうね。あの子が初めて、あれほど強く何かを望んでいることに……。だからといって、あなたに我慢をさせてよい理由にはなりません」
「そんなふうには思っておりません」
私は首を横に振った。
「わたくしも、殿下のお気持ちは理解しているつもりです」
「……今のあなたに、こんなことを言うのは卑怯だと分かっています。それでも、わたくしは……あの子の妃となるのは、あなたしかいないと思っているのです」
「王妃陛下……」
「ジュリア。あなたがこれまで積み重ねてきたものも、レイナルドに足りない部分を補おうとしてくれていることも、わたくしは知っています」
「……光栄でございます」
そう答えると、王妃陛下はようやく少し笑った。
「今度のお茶会も楽しみにしていますよ」
部屋を辞し、扉が閉まる。
一人になった廊下で、私は小さく息を吐いた。
「やっぱり、間違っていないのね……」
王妃陛下も、私を殿下の妃として認めてくださっている。
なら、あと少しだけ。
そう自分に言い聞かせた。
ところが、学園内で二人の関係を好意的に見る者は、少しずつ増えていった。
アイーダは明るく愛想がよく、相手の身分によって態度を変えない。特に一部の伯爵家や、子爵家以下の生徒たちから人気があり、彼女の周りにはいつも誰かがいた。
「殿下、アイーダ様といらっしゃると本当に楽しそうですわね」
「お二人って、なんだかお似合いよね」
最初は、その程度だった。
それが、いつしか別の意味を持ち始めた。
ある日の放課後、セドリックに呼び止められた。
「ジュリア。少し話がある」
人の少ない廊下まで移動すると、彼は深く息を吐いた。
「アイーダ嬢が王太子妃になればいい、という話まで出始めている」
「……いったい誰が」
「まだ特定はしていない」
「私が、殿下とアイーダ嬢の関係を認めていると思われているから?」
「おそらくは。君が何も言わない以上、周囲がそう考えるのも無理はない」
セドリックの表情は険しい。
「君も分かっているだろう。これ以上放置すれば、ただの学園の恋愛話では済まなくなる」
アイーダを好意的に見る者が増えれば、やがて一つの派閥にまでなってしまうのだろうか。
「高位貴族ほど、そうした空気の変化には敏感ですものね……」
「分かっているなら、一度きちんと殿下と話してくれ。私が言ったところで、あの方は聞く耳を――」
「私だって止めさせたいわよ!」
セドリックが黙った。
「……やっとなの。やっと殿下が笑ってくださったのよ……」
「……」
「私にも、以前より話しかけてくださるようになって……ずっと遠かった殿下が、ようやく少し近くに来てくださったの」
言葉にしてしまえば、自分がどれほど些細なものに縋っているのか分かってしまう。それでも、止められなかった。
「ここで私がアイーダ嬢とのことを責めたら、また殿下が離れていってしまうかもしれない。そう思うと……」
セドリックが眉を寄せた。
「正直……君が何を言っても言わなくても、殿下との距離はこれ以上縮まらないんじゃないか?」
「……それは」
「すまない。今の君に言うことではなかったな」
彼は踵を返し、数歩進んだところで足を止めた。
「ジュリア。一度、冷静になって考え直してほしい。君のためにも」
それだけ言って、彼は立ち去った。
私は呼び止めることも、言い返すこともできなかった。
それは、私自身もずっと考えないようにしていたことだったから。
◆
そして今。
王宮を出ると、肩に入っていた力が少し抜けた。
馬車へ向かいながら、私は隣を歩くセドリックへ声をかけた。
「私、これからやってみたいことがあるの」
「なんだ?」
「学園の魔法薬研究会。いろいろな薬や日用品を開発しているでしょう?」
セドリックが意外そうにこちらを見る。
「そんなことに興味があったのか?」
「作ってみたいものがあるの。ずっと気になっていたのだけれど、今までは時間がなくて」
「へえ……なら、私も参加してみようかな」
「セドリック様が? どうして?」
「面白そうじゃないか」
「まだ何を作るかも話していないのに?」
「だから興味を持ったんだよ」
思わず笑ってしまった。
そんな他愛のない話を交わしながら、私たちは馬車へ乗り込んだ。




