第3話 ジュリア視点
馬車がゆっくりと学園を離れていく。
「セドリック様……申し訳ございません。巻き込むような形になってしまって」
向かいに座るセドリックは、しばらく窓の外を眺めていたが、やがてこちらへ視線を戻した。
「君が気にする必要はない。私が同行するのは当然だ。それに、私にも殿下を止められなかった責任があるしね」
「ありがとうございます。……陛下は、お認めになるでしょうか」
「なるさ」
あまりにも迷いのない返事に、思わず彼の顔を見る。
「私だけじゃない。リズベット嬢をはじめ、殿下とアイーダ嬢のことを知っている者はいくらでもいる。それに最近は、高位貴族の間でも不満の声が出ている」
「……そうですね」
アルバイン侯爵家と近しい家々からも、殿下の振る舞いを快く思わない声が上がっていると、父から聞いていた。
王家と侯爵家との正式な婚約すら、殿下個人の感情ひとつで軽く扱われるのか。そんな不信感が、高位貴族たちの間にも広がり始めていたのだ。
「むしろ、君の家は大丈夫だったのか?」
その問いに、私は苦笑した。
「お父様は、かなり怒っていました」
「ならよかった」
セドリックはそう言ったあと、わずかに表情を曇らせた。
「それより……本当によかったのか。君は、それで」
「ええ」
迷わず答え、窓の外へ目を向ける。
遠ざかっていく学園を眺めながら、私はここへ来てからの日々を思い返していた。
◇
「殿下の婚約者です」
そう名乗ると、令嬢はぱちぱちと目を瞬かせた。
「レイの婚約者様……! は、初めまして! アイーダ・ベクターと申します!」
勢いよく頭を下げる。そのあまりにも慌てた様子に、今度はこちらが面食らっていると、レイナルド殿下が困ったように口を開いた。
「ジュリア、ちょっと……」
促されるまま、アイーダをその場に残して少し離れた場所へ移る。
その間にも、私の頭の中ではいくつものことが結びつき始めていた。
元は平民だったという少女。レイナルド殿下を『レイ』と呼ぶほど親しい間柄。そして、以前聞かされた昔の話。
まさか。
この方が、殿下の――。
そこまで考えて、飲み込んだ。
私は殿下の婚約者であり、将来の王太子妃だ。ここで感情のままに問い詰めてはいけない。
胸の奥に湧き上がるものを顔に出さないよう努め、なるべく穏やかな声で告げた。
「殿下。未婚の令嬢とお二人だけで過ごされるのは、あまりよろしいことではないかと存じます」
その瞬間、レイナルド殿下の表情が大きく揺れた。明らかに焦っている。
「ジュリア、頼む」
「……殿下?」
「学園にいる間だけでいい。アイーダと、昔のように過ごさせてほしい」
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
婚約者である私に、そんなことを頼むなんて。
「卒業したら、きちんと君との将来に向き合う。王太子としても、君の婚約者としても」
そして殿下は、私をまっすぐ見つめた。
「だから、それまで待っていてくれないか」
青い瞳が、私だけを捉えていた。
こんなにも真正面から見つめられたのは、婚約してから初めてだった。まるでこのとき初めて、殿下にきちんと『ジュリア』を見てもらえたような気がした。
「……分かりました」
気づけば、私は頷いていた。
「ありがとう、ジュリア」
殿下が笑った。
初めて、私に向けて笑ってくださった。
嬉しかった。泣きたくなるほど、嬉しかった。
目の奥が熱くなるのを感じながら、私はもう一度頷いた。
足取りも軽く校舎へ戻ると、廊下で待っていたセドリックがすぐにこちらへ歩み寄ってきた。
「どうだった?」
私はまだ胸の奥に残る喜びを隠しきれないまま、事情を話した。
セドリックはしばらく黙って聞いていたが、やがて片手で額を押さえ、大きく息を吐いた。
「殿下も殿下だが……君も、よくそれを認めたな」
「え?」
思っていた反応と違い、胸に浮かんでいたものが少しだけ萎んでいく。
「学園にいる間だけ、と言うがな。殿下は王太子だ。誰と親しくしているか、それだけで周囲は意味を見出すぞ」
「ですが、ベクター子爵家は確か地方の子爵家ですし、特定の派閥に深く属している家でもないでしょう?」
「そういう問題じゃない」
セドリックは呆れたように首を振った。
「ただでさえ殿下は、特定の誰かと親しく付き合うことが少ない。その殿下が、一人の令嬢だけを特別扱いしているように見えたらどうなると思う?」
言われて、言葉に詰まった。
確かに、先ほどの光景を思い返せば分かる。このまま二人が頻繁に一緒にいれば、周囲が気づかないはずがない。
「……ですが、ようやく殿下が、あんなふうに笑われたのです」
先ほどの殿下の笑顔が浮かぶ。
「本人も、学園にいる間だけだと言い切っておられます。少しくらい、様子を見てもよいのではないでしょうか」
それに、あくまで友人として過ごすだけだ。
殿下も、越えてはならない一線くらいはお分かりになっているはず。何より、あの方は将来王となることをきちんと理解している。
だから、大丈夫。
しばらくして、セドリックは深く息を吐いた。
「……まあ、あんなに浮かれている殿下は私も初めて見た。今の状態で何を言ったところで、素直に聞くとも思えないしな」
そして、私をまっすぐ見る。
「分かった。ただし、このことは国王陛下と王妃陛下にも伝える。それはいいな?」
私は小さく頷いた。
だから、そのときの私は考えることすらしなかった。
あの笑顔が、アイーダと過ごすことを許してもらえた安堵からこぼれたものだったことを。




