第2話 ジュリア視点
「ジュリア」
声をかけられて振り返ると、同じ学年のセドリック・ヴァルナー公爵令息が立っていた。
「レイナルド殿下は……またアイーダ嬢と一緒か。今日のことは伝えたのか?」
「伝えたわ。でも、『今日だけは、外せなくて』ですって」
セドリックは何か言いかけたようだったが、結局そのまま口を閉じた。
「……そうか。なら、行こう」
「ええ」
私たちは並んで校舎を出た。校門前には、すでに迎えの馬車が待っていた。
◇
レイナルド殿下との距離が大きく変わることのないまま、月日は流れた。
王立学園への入学を間近に控えたある日、王宮で顔を合わせた私は、その話を殿下に振った。
「もうすぐ入学ですね。地方からいらっしゃる方も多いそうですし、どんな方々とご一緒するのか楽しみです」
「そうだな」
いつも通り、淡々とした返事だった。
「……殿下は、あまり楽しみではないのですか?」
そう尋ねると、殿下は少し考えるように視線を伏せた。
「父上からは、学園ではこれまで接点のなかった者とも関係を築いておくようにと言われている。それが必要なのは分かっているが……楽しみかと言われると、よく分からないな」
殿下らしい答えだった。
人付き合いが苦手なわけではない。向こうから話しかけられれば相手に応じた態度を取るし、必要な場では会話もなさる。ただ、それを楽しいと思っているようには見えなかった。
「せっかく陛下も、学園へ通う間は殿下の公務を減らしてくださるのでしょう? でしたら、少しくらい学生生活を楽しんでみてはいかがですか?」
殿下が、何を言われたのか分からないような顔をした。
「たとえば……ご友人と過ごしたり、部活動をなさったり。殿下なら乗馬などはいかがです?」
「乗馬なら王宮でもできる」
「そういうことではなくて……同じ年頃の方々と一緒になさることに意味があるのです」
「……そういうものか?」
私が笑うと、殿下はやはり不思議そうにこちらを見ていた。
学園では、婚約者同士の交友関係が偏らないよう、なるべく別のクラスへ振り分けられると聞いていた。
それも悪くないのかもしれない。
私はこれまで、殿下のことばかり気にしすぎていたのではないだろうか。どうせ王宮へ戻れば、婚約者として顔を合わせる機会はいくらでもある。
それでも時々はカフェテリアで一緒に昼食を取ったり、放課後を過ごしたり、そんな普通の学生らしい時間を楽しめたらいい。
――その頃の私は、ずいぶん悠長にそんなことを考えていた。
◇
実際に学園生活が始まってみれば、私は思っていた以上に楽しく過ごしていた。
王太子妃候補として以前から顔を合わせたことのある令嬢も同学年に何人かおり、そのうちの一人、リズベット・カルディア伯爵令嬢には、ある日こんなことを言われた。
「ジュリア、まだ苦戦しているのねえ」
「何が?」
「殿下とのことよ。相変わらず、どうにか笑わせようと頑張っているのでしょう?」
「……余計なお世話よ」
「私は早々に見切りをつけてよかったわ。おかげで彼と出会えたのですもの」
「でもね、最近は殿下の方から声をかけてくださることもあるのよ。学園ではどう過ごしているのか、とか」
「あの殿下が? 少しは進歩しているじゃない。まあ、頑張りなさいな。私はこれから彼と出かけるから」
「はいはい。いってらっしゃい」
からかわれて頬を膨らませながらも、そんな気安いやり取りができること自体が新鮮だった。
レイナルド殿下とはクラスが違うため、学園では毎日顔を合わせるわけではない。それでも王宮で顔を合わせる機会はあったから、殿下の変化には気づいた。
「殿下、最近ご機嫌がよろしいですね」
ある日そう声をかけると、殿下は意外そうに私を見た。
「そうか……?」
「ええ。クラスで親しいご友人でもできました?」
「……ああ」
ほんのわずかに間を置いて、殿下が答える。
私は素直に嬉しくなった。
「そうですか……よかった。殿下が学園を楽しまれているなら、私も嬉しいです」
今思えば、ずいぶん間の抜けたことを言ったものだと思う。
その『親しい友人』が誰なのかを知ったのは、それからしばらく経ってからだった。
「ジュリア嬢」
廊下を歩いていたところを呼び止められ、振り返る。
そこにいたのは、セドリックだった。
制服をどこか洒落た雰囲気で着こなし、令嬢たちとも気安く言葉を交わしている彼には、正直なところ苦手意識があった。
そんな彼が、その日は珍しく真面目な顔をしていた。
「レイナルド殿下が、最近いつも一人の令嬢と過ごしていることは知っているか?」
「……令嬢?」
思わず聞き返した。
殿下に親しい友人ができたらしいとは思っていたけれど、まさかそれが令嬢だとは考えてもいなかった。
「どなたなのです?」
「アイーダ・ベクター嬢。地方のベクター子爵家へ養女として迎えられた、元平民の少女だ」
「……そこまで調べたのですか?」
「王太子殿下が頻繁に一緒にいる令嬢だぞ。公爵家の人間として、気に留めるのは当然だろう?」
普段の軽い雰囲気からは想像していなかったが、彼は彼で、自分の立場をきちんと理解しているらしい。私は少しだけ彼を見る目を改めた。
「今も一緒にいる。中庭だ」
「……ありがとうございます。様子を見てきます」
私はそのまま中庭へ向かった。
人通りの少ない場所まで足を進めると、木々の向こうに二人の姿が見えた。
「ねえ、見て。この本、覚えてる? まだ続いてたのよ。本屋で見つけてびっくりしちゃった」
木陰のベンチで、レイナルド殿下と一人の令嬢が並んで、一冊の本を覗き込んでいた。
柔らかなピンクブロンドの髪に、くりっとした瞳。人懐っこそうな顔立ちの令嬢が、嬉しそうに殿下へ身を寄せている。
「ああ。覚えてるよ。昔、君に読み聞かせたら泣いていたな」
「もう……そんなことまで覚えてるの?」
「『主人公が報われないなんて嫌だ』って、ずっと言っていただろう」
「やめてよ。恥ずかしいじゃない」
令嬢が楽しそうに笑う。そして殿下も、つられるように笑った。
私は、その場で足を止めた。
――笑っている。
外国の使節や貴族たちへ向ける、礼儀としての微笑ではない。もっと無防備で、年相応の少年のような笑顔だった。
あまりの衝撃に、気づけば私は二人のもとへ歩み寄っていた。
「殿下……」
私の声に、レイナルド殿下が振り返る。
その瞬間だった。
先ほどまで浮かんでいた笑みが、すっと消えた。
「……ジュリア」
いつもほとんど表情を変えない殿下が、珍しく目を見開いている。そして、ほんのわずかに私と令嬢との間へ視線をさまよわせた。
「どうして、ここに……」
隣にいた令嬢が、不思議そうに私を見る。
「レイ、この方は……?」
――レイ。
その呼び方に、息が止まりそうになった。
けれど私は表情を崩さず、彼女へ向き直る。
「はじめまして。ジュリア・アルバインと申します」
一度だけ、レイナルド殿下へ視線を向けた。
「殿下の婚約者です」




