【番外編】アイーダ視点
馬車に揺られること十日。ようやく子爵領へ帰ってきた。
旅の間、私はほとんど泣いてばかりだった。途中、お母様がお菓子を出してくれたり、何度も声をかけてくれたりしたけれど、何も食べる気にはなれなかった。
悔しくて、悲しくて、寂しかった。
どうして私だけ、こんなにつらい思いをしなくちゃいけないの?
レイ……レイナルド殿下は、これからジュリア様と何事もなかったみたいに幸せになるのに、私は学園を去って、王都からも離れて、こんなに苦しい思いをしている。
「アイーダ、着いたわよ」
お母様に声をかけられて顔を上げると、いつの間にか馬車は屋敷の前に止まっていた。ぼんやりしたまま馬車を降りる。
「アイーダ……」
顔を上げると、屋敷の前にルベルトお兄様が立っていた。
「ルベルトお兄様……!」
その姿を見た途端、胸の奥に溜まっていたものが一気にあふれた。私はお兄様の胸へ飛び込んだ。
「お兄様……ごめんなさい……。私、せっかく王立学園に行かせてもらったのに……」
「いいんだよ、アイーダ。一番つらかったのは、お前だろう」
お兄様の手が、私の頭を優しく撫でる。その言葉を聞いた瞬間、もう我慢できなかった。
「うぅ……お兄様ぁ……」
涙が止まらない。お兄様は何も言わず、私が泣き止むまでずっとそばにいてくれた。
◆
長旅から戻ったばかりだから、今日はゆっくり休みなさいと言われ、私は自分の部屋へ戻った。
「ただいま……」
数か月ぶりの私の部屋。桃色の壁に白い家具。昔、お母様が「アイーダにはこういう可愛い部屋が似合うわ」と、選んでくれたものだ。
ずっと留守にしていたのに、埃一つ落ちていない。私がいない間も、きっと誰かが掃除をしてくれていたのだろう。
「う……」
また涙がこぼれた。
お父様も、お母様も、お兄様も、私を王立学園へ通わせるために色々してくれたのに、全部無駄になってしまった。
――これも、レイナルド殿下のせいだ。
どうして私なんかに、好きだなんて言ったのよ。
私はベッドへ倒れ込み、クッションを抱きしめた。考えたくない。もう思い出したくないのに、目を閉じるとレイの顔が浮かんでしまう。
笑っていた顔も、私を見ていた目も、「アイーダ」と呼ぶ声も。
「……ばか」
クッションに顔を埋めた、その時だった。
「アイーダ」
扉の向こうから、お兄様の声がした。
「今、入ってもいいか?」
私は慌てて目元を拭った。
「……うん」
扉が開き、お兄様が部屋へ入ってくる。私の顔を一度見たあと、何も言わずベッドのそばの椅子に腰を下ろした。
「アイーダ……父上から聞いたよ。つらかったな」
「うん……」
「……なあ、アイーダ。俺にも、何があったのか話してくれるか?」
「どうして……?」
「口に出したら、少しはすっきりするかもしれないだろ。思い切って愚痴ってみればいい。俺が聞くから」
「お兄様……」
お兄様はいつもそうだ。私に優しくて、いつも気にかけてくれる。私がこの屋敷へ来たばかりの頃も、お兄様がそばにいてくれたから、すぐにここで暮らせるようになった。
「実は……」
私は少しずつ、学園であったことを話し始めた。
レイナルド殿下と出会ったこと。好きだと言われたこと。学園で一緒に過ごして、誕生日に出かけたこと。
話が進むにつれて、お兄様の眉間のしわがどんどん深くなっていく。
「……それは、殿下……」
お兄様は一度言葉を止めた。
「うん。いや、それはさすがに酷いな……」
「でしょう?」
私はぱっと顔を上げた。
「ああ。そこは殿下が悪い」
「だよね!」
久しぶりに、胸の中が少し軽くなった気がした。
「男から見ても、クズ寄りだと思う」
「ね! ね! そうだよね!」
思わず身を乗り出した。
「私を好きって言ったくせに、急に手のひらを返してジュリア様が好きだなんて……。自分勝手すぎるよ!」
「ああ……」
お兄様は困ったように息を吐き、それから少し間を置いて私を見る。
「……なあ、アイーダ」
「なに?」
「お前は、ジュリア様のことをどう思ってるんだ?」
「ジュリア様を……?」
どう思っている、と聞かれて、すぐには答えが出なかった。しばらく考えてから、私はぽつりと言った。
「……嫌い」
「どうしてだ?」
「だって……ずるいもん。ジュリア様はレイ……レイナルド殿下を好きでもないのに結婚できて、友達に囲まれて今まで通り学園にいられて……。私は全部なくしたのに」
「アイーダ。どうしてジュリア様が、レイナルド殿下を好きではなかったと言えるんだ?」
「え、だって……全然、一緒にいて楽しそうじゃなかったもん。それにレイナルド殿下だって、王族の婚姻に個人の意思は関係ないって言ってたし……」
私は思い出しながら続ける。
「ジュリア様に謝ったときも、『気にしていない』って言ってた」
「……気にしていないと言ったからって、傷つかなかったとは限らないだろ」
「……どうして、そんなこと言うの?」
私はクッションをぎゅっと抱きしめ、お兄様を見た。さっきまでお兄様は、私の味方をしてくれていたのに。
「ジュリア様は幼い頃から王太子妃になるための教育を受けてきたんだろう? 人前で感情をそのまま出さないよう教えられていた可能性だってある」
「……だから?」
「アイーダは、ジュリア様が殿下を好いているかもしれないとは、一度も思わなかったのか?」
「どうして……そんなこと言うの……?」
お兄様は少し眉を寄せた。
「お前だけのせいだと言ってるんじゃない。殿下にも責任がある。婚約者がいるのにお前へ好きだと言って、ジュリア様の気持ちも、お前がどうなるかも考えていなかった。それはさっき言った通りだ」
「だったら……」
「でもな、アイーダ。仮にも婚約者だ。たとえ恋愛感情がなかったとしても、自分の婚約者がほかの令嬢と何度も二人で会っていたら、嫌だと思う人はいる。傷つく人だっている」
「どうしてお兄様までそんなこと言うの? お兄様は私の味方でしょう?」
「味方だよ」
お兄様はすぐに答えた。
「俺はずっとお前の味方だ。だからこそ、言わなきゃいけないことは言う」
「私が間違ってるっていうの? 悪いのはレイナルド殿下じゃない!」
「アイーダ」
お兄様が私の名前を呼ぶ。
「ジュリア様から見たお前は、どう見えていたと思う?」
「え……?」
ジュリア様から見た、私。
そんなこと、今まで一度も考えたことがなかった。
「そんなの……わからないよ。私、ジュリア様じゃないもん」
「俺なら嫌だ」
はっきりとした声だった。
顔を上げると、お兄様は今まで見たことがないほど厳しい顔をしていた。
「お兄様……?」
「俺の婚約者が、ほかの男とあんなふうに何度も会っていたら嫌だ。たとえ政略結婚だったとしても、相手への信頼を失うと思う」
「……そうなの?」
「そう思う人間もいるってことだ」
お兄様は立ち上がった。
「アイーダ。お前は昔から、俺の言うことを信じてくれたよな」
「……うん」
「今すぐ納得しなくていい。ただ、お前が平気だったことを、相手まで平気だったと思わない方がいい」
そのまま扉へ向かい、振り返る。
「疲れてるところにごめんな。今日はゆっくり休め」
ぱたん、と扉が閉じた。
私は閉まった扉を見つめたまま動けなかった。
お兄様が、あんな顔をするなんて。
いつだって私に優しかったお兄様が、私のしたことを「嫌だ」と言った。
――不快だった。
その言葉が頭の中に残る。急に、血の気が引いていくような感覚がした。
「私……」
ジュリア様から見た私は。
もしかして――そんなに、嫌なことをしていたの……?




