第45話 レイナルド視点
部屋を出たあとも、アイーダの声が耳に残っていた。胸が重い。
「殿下」
「何だ……」
「いえ、お疲れ様です。ですが、まだまだ残っておりますよ」
「……分かっている」
正直なところ、しばらく何も考えたくなかった。だが、それですべてが終わったわけではない。
ベクター子爵とアイーダへの謝罪だけで、今回の件を収めることはできなかった。王家への不信を残さないためにも、俺自身が有力貴族へ説明して回る必要がある。
父上とともに、何人もの有力貴族と直接話をした。
「今回の件について、アルバイン侯爵家に落ち度はありません。ジュリア嬢は王太子妃候補として求められた役目を十分に果たしていました。問題があったのは、私の振る舞いです」
同じような説明を、何度も繰り返した。相手の反応はさまざまだった。
「いやいや、殿下。もうお気になさらず」
笑顔でそう言われたこともある。だが、声はまったく笑っていなかった。
それだけで終われば、まだましだった。
クラウン伯爵家を訪れたときには、夫人からあからさまな侮蔑と軽蔑の眼差しを向けられた。以前までは親しく接してくれていたバートン伯爵からも、
「殿下。さすがに今回のことは、看過できませんぞ」
と、厳しい声で言われた。
別の伯爵からは、
「若い頃には、誰しも一つや二つ間違いはございますよ」
と慰められた。
それはそれで、ひどく痛かった。
王太子としてなら、随分年下の頃から大人に交じって公務をこなしてきた。それなのに恋愛の話になった途端、『若気の至り』で済ませてもらう側に回るとは思わなかった。
気が重い。心も削られる。
もう二度とやりたくない。
それでも、俺が始めたことなのだから、俺がやるしかない。
中には、二、三時間では帰してもらえない家もあった。
今回の件についての説明が終わったと思えば、
「ところで殿下。以前から王家には申し上げたいことがございましてな」
と、なぜかまったく別の話が始まる。
王家の方針への不満から父上への苦言まで、今回の件とは直接関係のない話まで次々と持ち出された。さらには、
「国王陛下も、殿下が幼い頃からあまりに手がかからなかったので、安心なさりすぎたのでしょうな」
などと、遠回しに父上と母上の育て方まで刺された。
俺はただ、「……はい」と返すしかなかった。
さらに堪えたのは、なぜか俺と同年代の令息まで応接室に呼ばれた家だった。
「ちょうどいい。お前も聞いておきなさい。いくら身分が高くとも、自分の振る舞い一つで、これだけ周囲に迷惑をかけることがある」
そう言って、俺を教材にした説教が始まった。
令息と目が合った。
すぐに逸らされたが、その直前、口元がわずかに引きつったのを俺は見逃さなかった。
……今、笑われたな。
もちろん、何も言えるはずがない。
会う相手、会う相手に頭を下げる。そのたびに、自分がどれほど愚かなことをしたのか思い知らされた。
そして最後に残ったのが、一番気の重い相手だった。
アルバイン侯爵家へ向かう前、父上にはこう言われた。
「アルバイン侯爵家への正式な話は、私からも改めてする。だが、ジュリア嬢を傷つけたことについては、お前自身が頭を下げるべきだ。そこは一人で行ってこい」
それから父上は、深いため息をついた。
「お前は昔から手のかからない子だったからな。まとめてツケが来たのかもしれん」
そう言って、父上は少し笑っていた。
◆
アルバイン侯爵家を訪ねると、ジュリアは夫人とともに外出していると告げられた。少し残念に思ったが、今日の目的を考えれば、むしろその方がいいのかもしれない。
応接室へ通されると、アルバイン侯爵は俺を見るなり笑った。
「殿下。このたびは、わざわざ我が家までお越しいただき恐縮です」
「……いえ」
これほど、人を前にして逃げ出したいと思ったことがあっただろうか。
十四の頃、訓練中に魔獣の群れと遭遇したことがある。あのときは、本気で死ぬかと思った。それでも、今ほど逃げ出したいとは思わなかった。
少なくとも、ああいうときは何をすればいいのか分かる。今は、何を口にしても間違える気がした。
それでも逃げるわけにはいかない。
「侯爵。今回の件について、改めて謝罪したい」
席を立ち、頭を下げる。
「俺の振る舞いで、ジュリア嬢だけでなく、アルバイン侯爵家の名誉まで傷つけました。申し訳ありませんでした」
返事はなかった。
しばらくして、「どうぞ、お座りください」と言われ、席へ戻る。侯爵はにこやかな顔のまま、こちらを見ていた。
「いや、ジュリアから話は聞いておりますよ」
思いがけず穏やかな声だった。
「殿下も随分とお考えになったそうで。最近では娘のことを気にかけてくださり、これから大切にしたいとも言ってくださったとか」
「……はい」
「それを聞きましてね。私も安心いたしました」
胸に入っていた力が、少し抜ける。
よかった。ジュリアから話を聞いているのなら――。
「――なんて、私が言うと思いましたか?」
「……」
笑顔のまま、侯爵の指先が机をとん、と叩いた。
「殿下。あなたは何年、ジュリアと共にいらしたのですか?」
答えようとしたが、その前に侯爵が続けた。
「王太子妃候補だった頃から数えれば、随分長い付き合いになりますな。では、お気づきでしたか?」
声が低くなる。
「学園へ入ってから、ジュリアが痩せていったことに」
何も答えられなかった。
気づいていない。一度も。
侯爵の笑みが消えた。
「私は気づきました。そりゃあ、娘のことですからね」
机の上に置かれていた手が、固く握られる。
「あの子はもともと細い方でした。それが学園へ入ってから、さらに痩せた。屋敷へ帰ってきても食が進まない日があり、目元を化粧で隠していることもあった」
胸が重くなる。
「尋ねたこともありますよ。王太子妃教育だけではなく、殿下のことで何か悩んでいるのではないか、と。……何と答えたと思います?」
「……分かりません」
「あの子はね、『殿下があんなに楽しそうになさっているのを、初めて見たのです』と言ったんですよ。だから、せめて学生でいられる間くらいは、あの方が望むように過ごさせて差し上げたい、と」
指先から、少しずつ熱が引いていく。
「……俺は」
声がうまく出なかった。
侯爵はそんな俺を見たまま、低い声で続ける。
「ええ。ですから私も耐えましたよ」
俺は、ゆっくり顔を上げた。
「ジュリアがそこまで殿下を慕い、殿下のために耐えるというのなら、父親である私が先に口を出すわけにはいかないと。ですが、殿下。私には、どうしても理解しかねることがございます」
侯爵はまっすぐ俺を見る。
「娘をあれほど蔑ろになさっておきながら、今になって『大切にしたい』『妻にしたい』と仰る。何を根拠に、もう一度娘を求める資格がご自分にあると思われたのでしょう?」
背中に、冷たい汗が伝った。
その問いは、初めて考えたものではなかった。何度か頭をよぎっていた。だが、そのたびに答えを出さずにいた。
今、侯爵の口から突きつけられて、もう目を逸らすことはできなかった。全身は緊張で強張っているのに、頭の中だけは妙に冷静だった。
「……資格などありません」
侯爵の眉が、わずかに動いた。
「求婚したいというのも、俺の願望でしかありません。この先、ジュリアを一度も傷つけないと言い切ることもできません」
一度、息を吐く。
「それでも、王太子妃としても妻としても、俺の隣にいてほしいと思うのはジュリアだけです」
「では……娘に断られたら?」
「そのときは、生涯独身でいるつもりです」
侯爵が目を細める。
「俺以外にも継承権を持つ者はいます。愛せない相手を妻に迎えるより、その方がよほど責任ある判断だと思っています」
しばらく、侯爵は何も言わなかった。やがて、深いため息を吐く。
「……まったく。嫌なことをおっしゃる方ですな、殿下は」
「……はい?」
「政治の理屈まで持ち出して、こちらの逃げ道を塞いでくる」
「いや、そのようなつもりで申し上げたわけでは……」
「分かっていますよ」
侯爵はもう一度、大きく息を吐いた。
「……まあ、私も妻には随分と苦労をかけてきた身です。殿下に偉そうなことばかり言える立場でもありませんが」
先ほどまでの張り詰めた空気が、少しだけ緩む。
「妻もジュリアも、よく似ていますよ。滅多なことでは文句を言わない。こちらが大丈夫なのだと思っているうちに、ずっと我慢している」
そこで、侯爵の目が鋭くなった。
「そして限界を超えたときには、こちらが慌てても遅い。ですから殿下、今度は『何も言わないから平気なのだろう』などと思わないことです」
「……はい」
「娘が何を思っているのか、ちゃんと見て、聞いてください」
「……必ず」
俺は深く頭を下げた。
◆
帰りの馬車に揺られながら、俺は一人、考えていた。
「俺は、ジュリアに何ができる……?」
公務なら、俺自身が引き受けられるものもある。だが、ジュリアはそもそも、俺が手を貸さなければ何もできないような人間ではない。単に負担を減らせばいいという話でもないのだろう。
侯爵の言葉が蘇る。
『娘が何を思っているのか、ちゃんと見て、聞いてください』
今回のことで、自分がどれほど周りを見ていなかったのかは、嫌というほど分かった。ジュリアだけではない。セドリックも、エドガーも、何度も俺に言葉を向けていた。なのに俺は、自分に必要だと思ったところだけを聞いて、それで分かったつもりになっていた。
これからは、もっと周囲を見なければならない。言葉にも、ちゃんと耳を傾けなければならない。そして何より、ジュリアが何を思っているのかを、自分の都合で決めつけてはいけない。
もう、失いたくない。これ以上、悲しませたくもない。できることなら、ずっと笑っていてほしい。
そう考えたところで、ふと先日のことを思い出した。
「喜ばせる……か。あれで、喜んでくれるのだろうか……」
ぼそりと呟き、窓の外へ目を向ける。
いつの間にか日は傾き、街並みが夕暮れの光に染まり始めていた。




