第38話 アイーダ視点
「こんな格好をするの、久しぶり」
鏡の前で、くるりと一回転する。
今日の衣装は、簡素なワンピースにエプロンを重ねた町娘の服だ。ベクター子爵家へ養女に迎えられる前は、こういう格好で家のパン屋を手伝っていた。
「わあ、アイーダ、やっぱり似合う!」
「本当に町娘って感じ!」
「それ、褒めてる?」
笑いながら振り返ると、ちょうど相手役の男子生徒も着替えを終えたところだった。白を基調とした上着には金糸の刺繍が施されていて、普段とはずいぶん雰囲気が違う。
「そっちも似合うね。ちゃんと着こなせてる」
「俺、白が似合う男だって分かった?」
「それ、自分で言っちゃう?」
周りから笑い声が上がった。
舞台袖では、最後の確認が続いている。
「最初の幻影、もう一回確認するよ!」
舞台の前に張られた薄い幕へ魔力が流れ込み、ぼんやりと光が浮かび上がる。やがて華やかな夜会の広間が映し出され、その中を貴族たちの姿が行き交い始めた。
「右端の人、もう少しゆっくり歩かせられない?」
「これ以上いじると術式が崩れるって」
「じゃあ、そのままでいいか」
私はその様子を眺めながら、手元の台本をぱらぱらとめくった。
練習を始めてから、みんなで「あの場面を増やしたい」「こっちの方が分かりやすい」と意見を出し合い、少しずつ手を加えていった。
中には「そこまで変えて大丈夫なの?」と言う子もいたけれど、何度も話し合ううちに納得してくれた。
こうして読み返してみると、本当にいい話になったと思う。
もちろん、これは私たちの話ではない。
でも、少しだけ似ている。
そう思うと、この役を演じるのがますます楽しみになった。
「そうだ、アイーダ!」
一人の令嬢が勢いよく舞台袖へ入ってくる。
「レイナルド殿下、今日戻られたみたいよ!」
「え? レイ、帰ってきたんだ!」
何人かがくすくす笑った。
「ちゃんと席に案内しておいたよ。間に合ってよかったよね」
西部へ視察に行ったと聞いていたから、今日の劇には間に合わないかもしれないと思っていた。だったら後で話だけでもしようと思っていたけれど――見てもらえるんだ。
私が頑張って練習した劇を、レイにも。
「ただ……ジュリア様も一緒だけど」
「え……」
笑顔が少しだけ固まる。
「二人で来たの?」
「うん。さっき一緒に歩いてたみたい」
どうして。
そう思いかけて、すぐに首を振った。
「……でも、まだ正式には婚約解消してないからよね?」
「そうだった。王太子殿下だし、学園祭でも婚約者と一緒にいる必要があるのかも」
レイは王太子だもの。
普通の学生みたいに、好きな人と自由に学園祭を回れるわけではない。婚約解消が決まっていても、正式な手続きが終わるまでは、きっと王太子としてしなければならないことがあるのだろう。
「……大変だね、レイ」
学園祭くらい、自由に楽しめればいいのに。
「じゃあ、この劇が終わったら誘ってみようかな」
「殿下を?」
「うん。一緒に何か見に行けたらいいなって」
せっかく帰ってきたのだから、少しくらい楽しい時間があってもいいはずだ。
そう考えていると、離れたところから遠慮がちな声がした。
「あの……」
振り向くと、裏方を担当している令嬢がいた。伯爵家の娘で、最初から劇の内容にはあまり口を出していなかった子だ。
彼女は手元の台本と舞台を交互に見ながら、困ったような顔をしている。
「先生に提出した脚本と……だいぶ変わってない?」
「え?」
「だって最初は、婚約者もここまで悪い人じゃなかったでしょう。それに最後も……」
「ああ、それ?」
脚本を中心になって直していたベントン男爵令息が笑った。
「作ってる途中で変わるなんて普通だろ」
「でも……」
「最初のままだと盛り上がらなかっただろ。みんなで話し合って、分かりやすくしただけだよ」
「そうそう。こっちの方が絶対面白いって!」
「大筋は変わってないだろ。身分違いの恋ってところは同じなんだから」
何人かが笑う。
確かに、最初にもらった脚本とはずいぶん変わった。でも、練習を重ねるうちに台詞が増えたり、場面が変わったりすることくらいあるだろう。
何より、今の方が伝えたいことがずっと分かりやすい。
私は、この物語が好きだった。
「大丈夫だよ。みんなで考えて、作ったんだもん。皆も納得のものになったんだし」
「……そう、ね」
そのとき、舞台の向こうから声が飛んできた。
『開演五分前です! 出演者は準備してください!』
途端に、舞台袖が慌ただしくなる。
「アイーダ、最初の出番すぐだから!」
「うん!」
私は大きく息を吸った。
客席の向こうに、レイがいる。
「……見ていてね」
きっと、いい劇にするから。
やがて会場の灯りが落ち、ざわめきが静かになっていく。
薄い幕の向こうに、魔法の光が灯った。
映し出されたのは、小さな町だった。
通りの片隅にあるパン屋。その前で働く幼い少女のところへ、身分を隠して町へやってきた幼い王子が現れる。
二人は出会い、やがて仲良くなった。
『また会える?』
幼い少女が尋ねる。
『もちろん。約束する』
小さな王子が笑う。
二人の指が絡み合うと、舞台いっぱいに光が広がった。
景色がゆっくりと溶けていき、季節が巡る。幼かった二人の姿も消え、代わりに成長した王子と町娘が現れた。
私は舞台の中央へ進む。
「……あなたは」
王子役が、驚いたように私を見る。
「まさか……君なのか?」
私は胸の前で手を重ねた。
「お久しぶりです、殿下」
客席から、小さな歓声が上がった。
こうして、物語は始まった。
幼い頃に別れた二人は偶然の再会を喜び、少しずつ以前のように言葉を交わすようになる。
けれど、王子にはすでに婚約者がいた。
公爵家に生まれ、幼い頃から王子の妻となるために教育を受けてきた令嬢。
やがて、その婚約者が舞台へ現れる。
豪華なドレスをまとった令嬢が扇を広げ、王子の隣にいる私を見た。
「まあ。殿下がお話ししているからどなたかと思えば……」
私を上から下まで眺め、ふっと笑う。
「王子殿下のお傍に立てるのは、それにふさわしい家に生まれた者だけよ」
「わたしは、そのようなつもりでは……」
「では、二度と殿下へ近づかないことね」
婚約者役の令嬢が一歩近づいた。
「あなたのような平民が、王子殿下に近づかないで」
何度も練習した台詞なのに、胸の奥が熱くなった。
私は町娘の気持ちを思い浮かべ、胸の前でぎゅっと手を握る。
「……生まれた家が違うだけで、殿下を想うことまで許されないのですか?」
客席のどこかから、声を呑む音が聞こえた。
場面が変わる。
次に映し出されたのは、華やかな夜会だった。
私は先ほどまでの町娘の服ではなく、王子が用意してくれたという設定のドレスをまとって舞台へ出る。慣れないながらも令嬢らしく振る舞い、王子の傍らに立つ私を見て、周囲の貴族たちがざわめいた。
そこへ婚約者が現れる。
「そのような娘を夜会へ連れてくるなんて、殿下もお戯れが過ぎますわ」
「彼女を侮辱するな」
王子が私を庇うように前へ立った。
「ですが殿下、その娘は平民です。あなたのお隣に立てる者ではありませんわ」
「それを決めるのは君ではない」
婚約者役の令嬢が、今度は私を睨みつける。
「あなたさえいなければ!」
振り上げられた手が、私へ向かう。
けれど、それが届く前に王子がその腕を掴んだ。
「もういい……君との婚約は、ここで終わりだ」
客席が大きくざわめく。
王子は婚約者へ背を向けると、私の手を取った。
「俺が妻に選ぶのは、家柄でも身分でもない」
そして、まっすぐ私を見る。
「愛する人だ」
これは劇だ。目の前にいるのも、レイではない。
分かっている。
それでも――。
本当にそう言ってもらえたような気がして、胸の高鳴りを抑えられなかった。




