第36話 ジュリア視点
「美容液、本当に楽しみにしてますね!」
手を振って去っていく二人を見送り、私は小さく息を吐いた。
知らなかった。私のことを、そんなふうに見てくれている人もいたのね。
不思議な気分だった。
そのとき。
「ジュリア」
振り返ると、そこには殿下が立っていた。
「殿下……お帰りになっていたのですね」
「ああ。今朝戻った」
思わず全身へ目を走らせる。
目立った怪我はない。そのことにほっとしたのも束の間、すぐに別のことが気になった。
服装はいつも通り隙なく着こなしている。それだけに、顔色の悪さや目元に残る疲れが余計にはっきりと見えた。
「ご無事で何よりです。でも……ずいぶんお疲れではありませんか?」
「大丈夫だ。馬車では休んできた」
「馬車でって……それでは、きちんと休めていないでしょう。学園祭なら明日もありますし、そこまでして今日いらっしゃらなくても――」
「ジュリア」
言葉を遮られ、殿下を見る。
殿下は一度息を吐き、それからまっすぐ私を見た。
「君に、会いたかった」
「……わたくしに?」
「ああ。会いたかった。……西部にいる間、ずっと君のことを考えていた」
今度こそ、言葉を失った。
殿下自身も口にしてから気まずくなったのか、視線を逸らした。
「以前、君に聞かれただろう。父上と母上のような間柄になれるか、と」
「……ええ」
「あれから、俺なりに考えている」
そう言われ、胸の奥がわずかに熱くなる。
けれど、ここで喜んでしまうわけにはいかない。
「……殿下。わたくしが申し上げた意味は、分かっていらっしゃるのですか?」
「ああ。たぶん」
「殿下……それでは困ります」
殿下が黙った。
私だって、こんなことを聞きたいわけではない。けれど、ここを曖昧にすれば、きっとまた同じところへ戻ってしまう。
「わたくしは、国王陛下と王妃陛下のように、互いを気遣い、夫婦として想い合えるのかと聞いたのです」
言葉にするほど、顔が熱くなった。
それでも、ここまで言ったのだから最後まで聞かなければならない。
「殿下は……わたくしのことを、愛せると思いますか?」
殿下が目を見開いた。
しばらく、何も言わない。
期待していた気持ちが少しずつ萎んでいったころ、ようやく殿下が口を開いた。
「……今、愛していると言い切ることはできない」
やはり、と思った。
けれど、殿下はすぐに続ける。
「ただ、君を王太子妃として必要としているから手放したくないわけではない。それだけは分かった」
殿下は言葉を探すように一度黙った。
「婚約がなくなっても、君に会いたい。もっと君を知りたい。それに……君が他の男と一緒になるのは嫌だ」
「……殿下」
「だから、今ここで君が望みそうな言葉を言って誤魔化したくない。もっと君を知って、いつか迷わず、君を愛していると言えるようになりたい」
殿下は少し間を置いて続けた。
「それに……もしまた俺の隣に立ってくれるなら、今度は君ばかりに無理をさせたくない。俺も君を支えたい」
……ずるい。そんな言い方をされたら、嬉しくないわけがない。
それでも、まだ一つだけ残っている。
私は視線を落とした。
「……では、アイーダ様は?」
殿下の表情が止まった。
「そこを曖昧にしたままでは、わたくしは殿下のお気持ちを受け取れません」
それだけは譲れなかった。
しばらく黙っていた殿下が、ぽつりと言った。
「……忘れていた」
「え?」
「アイーダへの気持ちを整理しなければならないことを」
あまりにも予想外の答えに、殿下を見つめてしまう。
殿下は自分でも呆れたように額へ手を当てた。
「西部にいる間、君のことばかり考えていたから……いや。それで済ませてはいけないな」
少し考えてから、殿下は顔を上げた。
「アイーダとは、話をする。自分の気持ちも、もう一度整理する」
きりっとした顔で言われて、何とも言えない気持ちになる。
……本当に、こういうことだけは驚くほど不器用なのね。
「……分かりました」
そう答えたところで、離れた場所から控えめな声がした。
「あの……ジュリア様」
振り返ると、研究会の部員がこちらを窺っている。
「もう交代の時間ですので。あとは私たちがやりますから、休憩に行ってきてください」
「あら、もうそんな時間?」
「はい。どうぞ、ごゆっくり」
なぜか最後だけ妙に力がこもっていた。
隣を見ると、殿下も気まずそうな顔をしている。
……聞かれていたのかしら。
「ジュリア……学園祭を、一緒に回らないか」
思わず殿下を見つめ返した。
「……わたくしと、ですか? 何か公務として必要なのですか?」
「なぜそうなる。学園祭でまで公務をするつもりはない」
むっとしたように言われて、笑いそうになる。
「すみません。殿下からそのように誘っていただくのは珍しいので、つい」
「……そうだな」
「でも、せっかく休憩をいただいたのですし……ご一緒します」
そう言って作業台から離れると、殿下の表情が明るくなった。
「……よかった。断られるかと思った」
「殿下でも、そんなことをお考えになるのですね」
「今は、かなり考える」
あまりにも真面目な顔で言われて、こらえきれず笑ってしまった。
殿下も少しだけ笑い、それから私へ手を差し出す。
自然に差し出されたその手を見て、私はほんの少し迷ってから、自分の手を重ねた。




