第32話 ジュリア視点
学園へ入ってから、王都の夜会へ出席するのは久しぶりだった。
これまでは殿下の婚約者として王家主催の催しへ出ることが多かったけれど、今日はアルバイン侯爵家として招かれた夜会だ。エスコート役は父だった。
「そのドレスにしたのか」
支度を終えて階下へ降りると、父が私の姿を見て言った。
「ええ。王都の南区に新しくできた仕立て屋で作ってもらったの」
「ああ、前は市場だったところか」
選んだのは、婚約解消を申し出てから仕立ててもらった深紅のドレスだった。胸元には金糸の刺繍がふんだんに施されていて、細かな石を散らした首飾りを合わせている。
これまでは、殿下がお好きな色や、王家の色と並んだときにどう見えるかを考えて衣装を選ぶことが多かった。公務であれば、その日の出席者にどんな印象を与えるかまで考える。
今日は、そのどれも気にしなくていい。
鏡の前で見たとき、思っていた以上にしっくりきて、それだけで嬉しくなった。
「似合っている。お前はこういう、はっきりした色の方が映えるな」
「本当? 少し派手すぎない?」
「そんなことはない。美人なんだから、好きなものを着ればいいんだ」
最近、父は機嫌がいい。
婚約解消を申し出た直後など、殿下の話をするだけで眉間に皺を寄せていたというのに。
先日、殿下が婚約解消を望んでいないことを伝えたときも、
『そうか……ところでジュリア、今度の夜会だが』
と、すぐに話を変えてしまった。
そんな父に苦笑し、馬車へ乗り込んだ。
会場へ入ると、予想していた通り、何人もの視線がこちらへ向いた。殿下とアイーダ嬢の噂も、当然耳に入っているのだろう。
「ジュリア嬢。お久しぶりね」
最初に声をかけてきたのは、以前から母と親しいクラウン伯爵夫人だった。
「このところ、大変だったでしょう」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
「本当に殿下も、何をお考えなのかしらねえ」
夫人は困ったように息を吐いた。
「わたくしの夫は、若いうちは多少の過ちもあるものだと言うのだけれど、立場というものがありますでしょう?」
「殿下も、そのことは今は理解していらっしゃると思います」
「あなたは相変わらずね」
夫人は苦笑したあと、私のドレスへ目を向けた。
「でも、その色、とてもよく似合っているわ。髪の色も綺麗に映えているし。こういう色もお召しになるのね」
「ええ。以前から気になっていた仕立て屋で作っていただいたのです」
「あら、いいじゃない。どちらかしら?」
その後も、何人もの人から声をかけられた。
私を気遣う者もいれば、殿下の振る舞いに呆れる者もいる。王家との婚約が本当に解消されるのか、遠回しに探ろうとする者もいた。
中には、私に原因があるかのように口にする者までいた。
「それにしても、ジュリア様ほどの方が、元平民の令嬢にここまで押されてしまうなんて」
そう言ったのは、年配のリード子爵夫人だった。
「もう少し殿下のお心を掴んでおかれれば、こんなことにはならなかったのではなくて?」
隣にいた父の空気が変わったのが分かった。
けれど、その前に私は笑った。
「まあ。では夫人は、旦那様のお心を掴むために、普段どのようなことをなさっているのです? ぜひ参考にさせていただきたいですわ」
夫人がわずかに目を見開いた。
「それは……夫婦なのですから、互いに思いやりを持って接するのは当然でしょう」
「それなら、わたくしも見習わなくてはなりませんね」
笑顔のまま答えると、夫人は何とも言えない顔になった。
それ以上何か言う前に、別の者が私へ声をかけてきたため、その場を離れた。
父が小声で言う。
「言わせておけばよかったのに」
「お父様が言ったら、もっと面倒なことになりそうですもの」
父は不満そうな顔をした。その顔がおかしくて、笑ってしまう。
……楽だ。
父の隣なら、何を話すかを自分で決められる。誰かと会話をしていても、次に殿下へどの話題を振るべきか考える必要もない。
殿下と出席していた夜会では、ずっとこんなふうに気を張っていたのだろうか。
そのあと、バートン伯爵夫人と最近王都で評判になっている香油の話になった。
「香りは素敵なのだけれど、肌が荒れてしまって」
「成分によっては、合わないものもあるそうです。わたくしも最近、魔法薬について勉強していて」
「ジュリア様が?」
「ええ。今は美容液を試作しているところなのです」
そこから思いのほか話が弾んだ。気づけば、近くにいた別の令嬢まで加わっている。
「完成したら、ぜひ使ってみたいですわ」
「まだ試作段階ですけれど、いつか本当に商品にできればと思っています」
そう答えると、相手は楽しそうに笑った。私も自然に笑っていた。
やがてバートン伯爵夫人が帰る間際、不意に私の耳元へ顔を寄せた。
そして、夫人の祖国の言葉で囁く。
『簡単に許しては駄目よ』
思わず目を見開いて夫人を見る。
『ご忠告、ありがとうございます』
同じ言葉で返すと、夫人が目を細めた。
「あなたは相変わらず流暢ね」
それだけ言って、何事もなかったように夫のもとへ戻っていった。
私はその背中を見送りながら、小さく笑った。
しばらくして音楽が変わり、広間では新しい曲が始まった。
父は知人に呼び止められ、離れた場所で話をしている。
私は壁際で飲み物を手にしながら、広間を眺めていた。
確かに、殿下と一緒に出席していた夜会より、ずっと気が楽だった。
だからといって、あの時間がつらかったわけではない。
婚約して、まだそれほど経っていなかった頃のことを思い出す。
外国からの客人を招いた夜会で、私は相手の言葉を十分に聞き取ることができず、返事に困ったことがあった。
そのとき、殿下が何事もなかったように間へ入り、相手の言葉で会話を続けてくださった。
話が途切れずに済み、客人が離れたあと、私は驚いて尋ねた。
『殿下、あの国の言葉までお話しになれるのですか?』
『数日前に資料と一緒に覚えた』
『……申し訳ございません。わたくしも、もっと勉強いたします』
すると殿下は、本当に不思議そうな顔をした。
『なぜ謝る?』
『ですが、わたくしが分からなかったために、殿下のお手を煩わせてしまいました』
『分からないところを俺が補うのは当然だろう』
殿下はそう言ってから、先ほどまで客人がいた方へ目を向けた。
『それに、会話が続いていたのはジュリアのおかげだ。俺だけなら、あそこまで話は広がらなかった』
あまりにも何でもないことのように言われて、返事ができなかった。
……嬉しかった。
殿下に、自分のしてきたことを認めてもらえた気がした。殿下の隣に立つことは、誇らしかった。
あの場所を望んだことまで、間違いだったとは思わない。
「アルバイン侯爵令嬢」
声をかけられて振り返ると、そこにいたのは二十代半ばほどに見える男性だった。
何度か夜会で顔を見た覚えがある。
確か――。
「グレンヴィル伯爵?」
「覚えていただけていたとは光栄です」
穏やかな笑みを浮かべて頭を下げる。
「もし差し支えなければ、一曲お相手いただけませんか」
「わたくしでよければ、喜んで」
差し出された手を取り、ともに広間へ出る。
グレンヴィル伯爵は話しやすい人だった。こちらの事情へ踏み込むこともなく、最近訪れた地方の話や、王都で新しく始まった催しについて話してくれる。
私も美容液のことや、最近観た芝居の話をした。
曲が終わる頃には、思っていた以上に楽しい時間になっていた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。また機会があれば、ぜひ」
伯爵が離れていく。
その背中を何となく見送っていると、いつの間にか父が隣に立っていた。
「なかなかいい男じゃないか」
「……お父様、いつの間に」
「グレンヴィル伯爵だろう。領地経営の評判も悪くない。人柄も堅実だと聞いている」
「ずいぶん詳しいですね」
「前の結婚が終わったのも、向こうの不貞が原因だったはずだ」
私はゆっくり父を見る。
「……お父様、いつから調べていたのですか?」
父は答えず、何でもないように飲み物へ口をつけた。
「結婚するなら、ああいう男も悪くないんじゃないか?」
「……」
私はもう一度、グレンヴィル伯爵のいる方へ目を向けた。少し離れた場所で、別の客と話している。
「ええ……そうですね」
そう答えると、父が満足そうに頷いた。




