第31話 レイナルド視点
西部に到着して三日目だった。
本来なら今日には西部を発つ予定だったが、昨夜から降り続いた大雨で川が増水し、下流の集落で堤防の一部が崩れた。幸い死者は出なかったものの、家屋の浸水や倒壊は少なくなく、街道も一部が使えなくなっている。
現地を視察し、状況を王都へ報告する。それだけなら予定どおり西部を発つこともできただろう。
だが、実際に避難所へ足を運び、家を失った者たちの顔を見てしまえば、王太子として「では後は任せた」と帰るわけにはいかなかった。
「避難所ごとの人数はこちらです。食料は現状、四日ほどは持つ見込みですが、南側の街道を使うとなると、次の補給まで時間がかかります」
「四日分では足りない。近隣領に支援を要請しろ。費用は王家で持つ。復旧に必要な人員も、こちらから出せるよう手配する」
「承知しました」
書類に目を落としながら指示を出す。やるべきことは分かっている。優先順位も間違えていない。
分かっているのだが。
「……殿下?」
「何でもない」
窓の外を見る。
学園祭まで、あと七日。
そう思い出した途端、深いため息が出た。
戻ったら、ジュリアを誘うつもりだった。
学園祭では婚約者がいる者は、その相手と一緒に回ることが多い。婚約者のいない者にとっては、親しくなりたい相手を誘ういい機会でもある。
つまり、俺がここにいる間に、ジュリアが誰かに誘われる可能性がある。
「……」
真っ先に浮かんだのはセドリックだった。
いや、あいつは――。
それどころか、魔法薬研究会にも男はいる。
王宮に勤める文官の息子には、それとなく言っておいた。ジュリアを困らせるような真似はするな、と。
だから大丈夫なはずだ。
……いや。
何をしているんだ、俺は。
そもそも、他のクラスの生徒だっている。
学園祭ともなれば、普段あまり話す機会のない相手にも声をかけやすい。まだ正式には俺の婚約者なのだから、誘うこと自体はおかしくない。
「……帰りたい」
だが、目の前には被災した集落がある。自分の都合で放り出せるはずもなかった。
「……手紙の返事は来ていないか?」
近くにいたエドガーがきょとんとする。
「手紙、ですか? いえ。まだ何も」
「そうか……」
王都を出てから、ジュリアには一度手紙を送っていた。
急な事情で帰還が遅れていること。学園祭までには戻るつもりであること。
そして――。
本当なら、
『学園祭を一緒に回らないか』
そう書けばよかったのだ。
だが、婚約解消について話している相手に、当然のようにそんなことを書いていいのかと迷った。
まだ正式には婚約者なのだから、誘ったところでおかしくはない。それでも、今までのように当然のこととして扱うのは違う気がした。
散々考えた末、結局書いたのは、
『戻ったら、少し時間をもらえないだろうか』
という、我ながら何とも要領を得ない一文だった。
……やはり、書き方が悪かったのだろうか。
いや、そもそも返事を求めるような内容でもない。
それでも、少しくらい何かあってもいいのではないかと思う。
「殿下、南側の街道に魔獣が出たとの報告です!」
「……何だと?」
南側の街道――あの辺りは、そもそも魔獣が出るような場所ではない。
「種類は?」
「灰牙狼です。確認できただけでも六頭ほど。街道を通っていた者たちが襲われていると」
頭の中で、この辺りの地形を思い浮かべる。
南側の街道から西へ進めば、川を挟んで森がある。灰牙狼の生息地は、さらにその奥だ。普段なら、あそこから街道近くまで出てくることなどほとんどない。
だが――。
「……昨夜からの増水で、森の低い場所まで水が入っているはずだ。巣を追われたのだろう」
居場所を失い、そのまま街道側へ流れてきたと考えれば辻褄が合う。
しかも灰牙狼は、一頭で獲物を狙う魔獣ではない。群れで動き、複数で獲物を追い込んで仕留める。
六頭もいるとなれば厄介だ。
「まずいですね。ただちに討伐隊を向かわせなければ……」
「誰を出す?」
エドガーの返事が止まった。
現地の兵は、避難所の警備や堤防周辺の見回りに回っている。街道の封鎖や物資の運搬にも人手を取られていた。
近隣領へ応援を求めたくとも、どこも大雨の被害を受け、自分たちの領地を守るだけで手一杯だ。
「王都から連れてきた近衛を何人か連れて行く」
「連れて……? 殿下、まさか」
「俺が行く」
「お待ちください! 殿下御自ら向かわれる必要はございません」
「では、今すぐ動かせる者が他にいるのか?」
「それは……」
「南街道は補給路でもある。このまま放置すれば、避難所へ物資を運ぶことにも支障が出る」
そう告げて立ち上がった。
「ここは任せる」
「殿下!」
机のそばに立てかけていた剣を取り、外套を羽織る。
本来なら、王太子自らが魔獣討伐へ出る場面ではない。それでも灰牙狼が六頭以上の群れを作っているとなれば、近衛騎士であっても容易な相手ではない。腕の立つ者は、一人でも多い方がいい。
近衛騎士を連れ、現地の兵にも案内を頼んで南街道へ向かった。
街道へ近づくにつれ、道には泥が増えていった。倒れた枝や流されてきた木片が散乱し、あちこちに大きな水溜まりができている。
やがて、前方から悲鳴が聞こえた。
「急げ!」
馬を走らせる。
街道の先では、一台の荷車が横転していた。荷物が道いっぱいに散らばり、その脇を数人の民が必死に逃げている。その後ろから、灰色の毛並みをした魔獣が迫っていた。
「殿下、お待ちください!」
背後から制止する声が飛んだが、構わず馬を走らせる。
速度を落としたところで剣を抜き、鞍から飛び降りた。
こちらへ飛びかかってきた一頭を横薙ぎに斬り払う。灰牙狼の身体が地面へ転がった。
「民を先に逃がせ!」
「はっ!」
近衛たちが散る。
その直後、林からさらに二頭が姿を現した。
「右に二頭! そちらは任せる!」
「承知!」
一頭が荷車の陰へ回り込む。その先には、足がすくんだのか動けずにいる老人がいた。
俺は老人のもとへ駆け、飛びかかろうとした灰牙狼との間に入る。そのまま剣を振り下ろすと、刃が首元へ食い込み、魔獣が崩れ落ちた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です……後ろ!」
声と同時に、背後で地面を蹴る音がした。
身体を横へずらす。すぐ脇を牙が通り過ぎた。
振り向きざまに剣を下から振り上げる。刃が灰牙狼の腹を裂き、その身体が勢いのまま地面へ転がった。
「ひっ……」
老人が息を呑む。
「今のうちに。向こうに兵がいる」
「は、はい……!」
老人が駆けていくのを確認してから、周囲へ目を向ける。
今の一頭――俺が老人へ意識を向けたところを狙ってきた。
「……やはりか」
灰牙狼は、一頭が獲物の注意を引き、その隙に別の個体が側面や背後へ回る。
だから厄介なのだ。
林の奥から、また低い唸り声が聞こえた。
「殿下、こちらは片づきました!」
「気を抜くな。互いの死角を見るように動け。これだけとは限らない」
「はっ!」
結局、その日のうちに確認できた灰牙狼は十頭を超えた。
討伐が終わった頃には、日が傾き始めていた。
現地の兵が、倒れた魔獣を見ながら感嘆したように言う。
「さすが殿下です……灰牙狼の群れを相手に、死者が一人も出なかったなんて」
「俺一人で倒したわけではない」
剣についた血を拭いながら答える。
問題は、そこではなかった。
これだけの数が街道まで出てきたということは、他にも生息地を追われた魔獣がいる可能性が高い。川が引くまでには、まだ時間がかかる。南街道だけで済むとも限らない。
「しばらく周辺の警戒を強めろ。今日までに報告された魔獣の目撃情報をすべて集めて、地図に落とせ」
「承知しました」
返事を聞きながら、街道の向こうへ目を向ける。
被害状況をまとめ、警戒区域を決める。討伐に回せる人員を組み直し、補給路も確保しなければならない。
そこまで済ませれば、あとは現地の者たちへ任せて王都へ戻ることもできる――。
「……」
つい先ほどまで、目の前で民が魔獣に襲われていたのだ。このまま自分だけ王都へ戻る気にはなれなかった。
俺は長く息を吐いた。
……また、帰還が延びる。




