第33話 レイナルド視点
「殿下!!」
近衛の叫びが飛ぶ。
俺は踏み込んだ勢いのまま剣を振り下ろした。刃が灰牙狼の首を捉えた瞬間、巨大な首が落ち、遅れて胴体が地面へ倒れ込んだ。
どさり、と腹に響くような音がした。
「はっ……はぁ……」
荒い息を繰り返しながら、倒れた灰牙狼を見下ろす。
「……やはり、こいつだったか」
周囲では、それまで統率されたように動いていた灰牙狼たちが散り始めていた。近衛たちがすぐさま残った個体を追っていく。
俺も立ち上がろうとして、一度膝をついた。足に力が入らない。
「殿下、お手を!」
駆け寄ってきた近衛が手を差し出す。その手を借りて、どうにか立ち上がった。
「お怪我は?」
「ない。疲れただけだ」
近くにあった倒木まで移動し、腰を下ろす。腕も足も重い。剣を握っていた右手は、まだわずかに震えていた。
しばらくして、残った灰牙狼の討伐を終えた兵たちが戻ってきた。
「倒した個体は回収しておけ。詳しい検分は専門の者に任せる」
「承知しました」
兵たちが動き始める。大型の灰牙狼を見ていた近衛の一人が、目を見張った。
「それにしても、お見事でしたな」
「お前たちが周りを引き受けてくれたからだ。あの数を相手にする方も十分厄介だっただろう」
「いやいや。それでも、この大きさを一人で仕留められたのですから」
「図体の割には、思っていたほど速くなかった。それに助けられた」
通常の灰牙狼より遥かに大きい分、力は強かったが、俊敏さでは周囲の個体に劣っていた。それでも、楽な相手ではなかったが。
近衛たちの感嘆する声を聞き流しながら、手袋を外す。指先まで泥に汚れ、爪の間にまで土が入り込んでいた。
やがて、周囲を確認していた別の近衛が戻ってきた。
「殿下。この個体が倒れてから、ほかの灰牙狼の動きが明らかに変わりました」
「ああ。残った群れは小さく分かれるはずだ。今日までのような被害は減るだろう」
もちろん、これですべてが終わるわけではない。残った魔獣の討伐は必要だし、周辺の警戒もしばらく続ける必要がある。それでも、現地の兵だけで対応できるところまでは来た。
「……帰れる」
思わず、口からこぼれた。
◆
最初に魔獣の被害が確認されてから数日が経っても、状況は一向に改善しなかった。
南街道で灰牙狼の群れを討伐した翌日には東側の農村で別の群れが確認され、その翌日には、さらに北寄りの林道から目撃情報が入った。
増水によって生息地を追われたのなら、時間が経つにつれて魔獣は散っていく。当初は、そう考えられていた。
ところが、倒してもまた別の場所に現れる。それも一頭や二頭ではなく、毎回まとまった数で行動していた。
「……おかしい」
執務机に広げた地図を見ながら呟く。机の上には、今日までに届いた目撃情報と討伐記録が積み上がっていた。
「殿下。もうお休みになった方が……」
向かいにいたエドガーが、疲れ切った顔で言った。窓の外は、とうに暗くなっている。
「お前は休んでいろ」
「……殿下もですが」
「俺はもう少し見る」
「昨日もそう仰っていましたが……」
聞こえなかったことにして、地図へ視線を戻す。
ここ数日、まともに眠った記憶がない。昼間は被害地域を回って状況を確認し、必要な人員や物資の手配を決める。必要があれば討伐にも出る。戻れば、その日に集まった報告を確認し、翌日の動きを決める。
少しでも早く状況を落ち着かせなければならない。それに、学園祭まで、もう時間がなかった。なんとしてでも、それまでには王都へ戻りたい。
「……殿下。せめて二時間でもお休みください」
「分かった。これが終わったら寝る」
エドガーが何とも言えない顔をしたが、気づかないふりをして、俺は再び地図を見る。
南街道、東の農村、北東の林道。そのほかにも、小規模な目撃情報はいくつもあった。
これまでは、増水した地域から複数の群れがばらばらに逃げてきたものだと考えていた。
だが――。
「待て」
ふと、数日前に聞いた話が頭をよぎった。
南街道で灰牙狼を討伐した日の夕方、東の農村からも目撃の知らせが入っていた。
「確か、東の村で最初に見つかったのは七頭前後だったな」
「……そうでしたか?」
「村から来た男がそう言っていた。その翌朝、北東の林道でも目撃されている」
机の上の記録を辿りながら、地図へ印をつけていく。
「その前は南街道。その前日には、西側の森でも目撃されている」
「ですが、時間も頭数もかなり曖昧ですよ」
確かに、報告された時刻も目撃された頭数も正確ではない。正式な記録に残っていない話もある。
「なら、確実に分かっているものだけを拾えばいい」
目撃された場所と、その前後関係。それだけを地図に落としていく。
一つずつ見れば何の規則性もないように見えた。だが、目撃された順に印を結んでいくと、いくつかの流れが浮かび上がってくる。
「……何か分かったのですか?」
エドガーも地図を覗き込む。
南街道から東の農村、さらに北東の林道へ。別の目撃情報も、辿っていけば似たような動きをしている。
地図の上で、それぞれの線を逆へ伸ばしてみる。
「……移動してきた方向が近い」
いくつかの線が、西側の一帯へと戻っていく。
「こいつら、同じ場所から分かれていったんじゃないか?」
エドガーが地図と俺の顔を見比べた。
「ですが、それなら……最初からかなりの数が一か所にいたことになります。灰牙狼が、それほど大きな群れを作るのですか?」
「普通なら作らない」
地図を見つめているうちに、もう一つ引っかかるものがあった。
「そういえば……通常より大きな灰牙狼を見たという話がなかったか?」
「大型の個体ですか?」
エドガーがしばらく考え、それから机の上の書類を探し始めた。
「……これでしょうか。北側の林で、ほかより大きく見える灰牙狼がいた、とあります」
受け取って目を通す。
その記録はそれだけだったが、さらに探すと、別の場所から届いた報告にも、遠目に大きな個体らしきものを見たという記述があった。
二つの目撃地点を地図へ加える。どちらも、先ほど辿った流れの中にあった。
さらに記録を見比べると、大型の個体が目撃されたあと、その周辺にいた灰牙狼の群れが別の方向へ移動している。偶然にしては、出来すぎていた。
「……まさか、この個体を中心に動いていたと?」
「まだ分からない」
灰牙狼が複数の群れをまとめるなど、少なくとも俺は聞いたことがない。もっとも、魔獣についてすべてが分かっているわけでもなかった。
今回の大雨で生息域が大きく変わったことで、今まで人目につかなかった習性が現れた可能性はある。
「次に現れる場所を絞れるかもしれない」
これまでの移動方向と浸水した地域、まだ水の影響が少ない森を地図の上で照らし合わせ、可能性の低い場所を一つずつ外していく。
最後に残った場所を指した。
「ここだ」
「……」
「どうした?」
「……殿下は、本当にこういうときはすごいですよね」
「こういうときは、とはどういう意味だ」
「いえ……王太子殿下として尊敬しております」
エドガーは深いため息をついて、地図へ視線を戻した。
なんなんだ……。
翌朝、予想した森へ向かうと、本当に灰牙狼の群れがいた。
そして、その中央に、ひと目で異常だと分かる個体がいた。
通常の灰牙狼より明らかに大きく、灰色の毛にはところどころ黒い毛が混じっている。太い四肢で地面を踏みしめ、その周囲を十頭近い灰牙狼が取り囲んでいた。
「……当たりか」
隣にいた近衛が息を呑む。
「殿下。あれを倒せば……」
「少なくとも、この異常な集団行動は崩せる可能性が高い」
剣を抜く。腕が重い。昨日もほとんど眠っていないせいだろう。ここ数日の疲れが、身体のあちこちに溜まっている。
「殿下……さすがに今回は、我々にお任せになった方がよろしいのでは」
後ろからエドガーの声が飛んだ。
「俺だけ後ろで見ているわけにもいかないだろう」
「そう仰ると思いました……」
諦めきった声を背に、俺は剣を構えた。
「行くぞ」
灰牙狼たちがこちらへ気づく。低い唸り声が重なり、次の瞬間、一斉に地面を蹴った。
◆
必要な引き継ぎを終え、西部を発った頃には、身体の疲れが限界に近づいていた。
馬車の座席へ深く身体を預ける。こんなに疲れたのは、いつ以来だろう。
徹夜そのものなら、これまでにも何度か経験している。緊急の案件が入れば夜遅くまで執務を続けることもあるし、公務が立て込めば睡眠時間が削られる日もあった。
だが、それが何日も続いた経験はなかった。
馬車の壁に頭を預け、目を閉じる。
すると、ジュリアの声が蘇った。
『え? 疲れましたよ?』
『特に最初の頃は、帰るとぐったりしていました』
「……これを、何年もか」
求められる役目をこなし、疲れても顔には出さず、翌日になればまた同じように動く。それを、何年も続けていた。
俺は一度でも、疲れていないかと聞いただろうか。無理をしていないかと、気にかけたことがあっただろうか。
社交だってそうだ。上手くできることと、負担ではないことは別だ。
今になって、ようやく実感が追いついた気がする。
「……馬鹿だな、俺は」
帰ったら、聞こう。
今まで、俺が聞こうともしなかったことを。
今度は、勝手に分かったつもりにならず、ジュリア自身の言葉を聞こう。
そう考えているうちに、瞼が重くなった。
ジュリアに会いたい。
そのことだけを最後に思いながら、俺は馬車の揺れに身を任せた。




