第29話 レイナルド視点
公務の合間に与えられた短い休憩時間。執務机の上に広げた資料へ目を通していたが、内容がまるで頭に入ってこない。
「殿下」
向かいの机で書類を整理していたエドガーが声をかけてきた。
「先ほどから、同じページを三度ほどご覧になっています」
「……そうか?」
「はい。……お疲れなのでしょうね」
エドガーはそう言って、手元の書類へ視線を戻した。
――あの子はずっとあなたのことが好きだったでしょう。
母上の言葉が、何度も頭に浮かんでいた。
ジュリアが、俺を。
……本当に?
いや、母上がああ言うのだから、そうだったのだろう。改めてその事実を意識すると、胸の奥が落ち着かなくなった。
嬉しい。
最初に浮かんだのは、そんな感情だった。自分でも驚いた。だが、素直に嬉しかった。
その次に浮かんだのは、疑問だった。
だったら、なぜ何も言わなかったんだ。
そう思ったところで、ふと記憶が引っかかった。本当に、何も言わなかっただろうか。
――殿下。未婚の令嬢とお二人だけで過ごされるのは、あまりよろしいことではないかと存じます。
そう言われたことがある。あのとき俺は、何と答えた。
――今だけだ。頼む。
そんなことを言った。
ジュリアは少し黙って、それから笑った。今なら思い出せる。瞳を潤ませながら、それでも俺に微笑んでいた。
「……俺が、黙らせたのか」
「え?」
「いや、何でもない」
母上にも言われたはずだ。
――ジュリアがあなたの願いを受け入れたのは、あなたを思っているからです。
あのときの俺は、それを聞いてどう思った?
そうか、と。ただ、それだけだった。
「……何を聞いていたんだ、俺は」
額を押さえる。
ジュリアが何を思っているのか、一度でもきちんと聞いたことがあっただろうか。
それなのに俺は、アイーダと再会した。懐かしくて、嬉しくて、昔と同じように接することを当然のように続けた。ジュリアがすぐそばにいるのに。
ジュリアが俺を好きだったのなら――。
そこまで考えて、ますます頭が痛くなった。
「……最悪だな」
「何がですか?」
エドガーはこちらを見ていた。
少し迷ってから、俺は尋ねる。
「……自分が大切に思っている相手が、別の誰かを特別扱いしていたら、嫌なものか?」
エドガーはひどく不愉快そうな顔をした。
「嫌ですね」
「……そうか」
「殿下は、平気なのですか?」
ジュリアがセドリックと親しく話しているだけで、あれほど気になったのだから。
「いや……かなり嫌だな」
「でしょうね」
エドガーは深く息を吐くと、手元の書類へ視線を戻した。なぜか、ひどく疲れたように見えた。
「……どうすればいいんだ」
婚約を解消したくない。それだけは、最初から変わらない。
だが、それだけでは足りないのだ。
「殿下……不躾を承知の上で、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
エドガーの顔をまじまじと見る。
こいつが自分からこんなことを言うのは珍しい。必要なことは口にするが、俺の私事へ踏み込んでくることはほとんどなかった。
「言ってみろ」
「……もしジュリア様を、王太子妃として必要だから手放したくないというだけなのでしたら……諦められた方がよろしいかと存じます」
思っていた以上に、胸に刺さった。
「……違う」
気づけば、そう口にしていた。
違う。王太子妃として必要だから、それだけでジュリアを手放したくないわけではない。
そう思う。
では、なぜだ。
答えようとして、言葉に詰まった。
「……それでは、ジュリア様があまりにもお気の毒です」
エドガーはそれだけ言うと、何事もなかったように手元の書類へ視線を戻した。
俺は何も言えず、無意識に手元の紙を握りしめた。
ジュリアの顔を思い出す。
――わたくしと殿下は、国王陛下と王妃陛下のような間柄になれるでしょうか?
では、俺はジュリアをどう思っている?
目を閉じ、椅子の背もたれに深く体を預けた。
こういうときは、一つずつ問いを立てた方がいい。頭の中がまとまらないとき、俺はいつもそうして考えを整理する。
もし、本当に婚約が解消されたら。それでもジュリアに会いたいか。
――会いたい。
公務を一緒にする必要がなくなっても、話したいか。
――話したい。
国のことだけではない。魔法薬のことでも、俺の知らないことを楽しそうに話すジュリアを、もっと見たいと思う。
では、ジュリアが俺ではない誰かと婚約したら。
一瞬、セドリックの顔が浮かんだ。途端に腹が立った。
いや、セドリックでなくても同じだ。
知らない男がジュリアの隣に立つ。その男と一緒に出かけて、その男の前で俺の知らない顔を見せる。やがて、その男の妻になる。
「……嫌だ」
考えるより先に、言葉が出た。
向かいで紙をめくる音が一瞬止まる。顔を上げると、エドガーは何事もなかったように手元の書類へ視線を落としていた。
正式に婚約が解消されたとしても、きっと俺は同じように思う。
では、この感情は何だ。
ここまで考えても、まだ一つの言葉にまとめられない。
……遅すぎるだろうか。
ジュリアは、まだ俺を許してくれるのだろうか。
いや。
そこで、セドリックに言われたことを思い出した。
――私なら許しませんけどね。あえて言うなら、ジュリア嬢へのお気持ちを整理されてみれば?
俺は深く息を吐いた。
「……ジュリアに会おう」
顔を見て、話をしよう。そうすれば、自分の気持ちも分かるかもしれない。
そう思って立ち上がった、そのときだった。
扉が叩かれる。
「殿下、失礼いたします」
入ってきた侍従へ目を向ける。
「どうした」
「西部から急報です。国境付近で起きた件について、現地との調整が必要になりました。陛下がお呼びです」
「……分かった」
嫌な予感がした。
その予感は、父上の執務室へ入ってすぐに当たった。
「レイナルド。明朝、西部へ向かえ」
「……俺がですか」
「ああ。先方との話はお前が行った方が早い。現地で三日、長ければ五日ほどになる」
「……」
頭に真っ先に浮かんだのは、西部の状況ではなかった。
ジュリア。
今日、会おうと思っていたのに。
「何だ、その顔は」
父上が怪訝そうに眉を寄せる。
「……いえ。承知しました」
王太子である以上、断る理由などない。ないのだが。
執務室を出ながら、深いため息が漏れた。
なぜ、こういうときに限って。




