第17話 レイナルド視点
アイーダと別れたあと、俺はジュリアの教室へ向かって廊下を歩いていた。
『私、レイが好きだよ』
何度も欲しいと思った言葉だった。実際、嬉しかった。胸の奥が熱くなるほどに。
少し前の俺なら、ジュリアとの婚約があることを承知したうえで、同じ気持ちだと告げていただろう。
だが、今は違う。
これ以上、ジュリアを傷つけるわけにはいかない。だから、アイーダの気持ちには応えられなかった。
正しいことをしたはずだ。
それでも、俺も同じ気持ちだと告げたい思いは残っていた。だが、そのまま口にすることはできなかった。昨日の父上と母上の顔と、婚約を解消したいと告げたジュリアの姿が、どうしても頭から離れなかった。
重い足取りで廊下を進みながら、ふと先ほどのアイーダの言葉を思い返す。
『それって、やっぱりレイが王太子だから?』
『好きじゃない相手と結婚しなきゃいけないなんて、おかしいよ!』
何がおかしいのだろう。
王族として生まれ、まして次代の国王となる以上、婚姻が自分一人の感情で決められないことなど当然だ。俺自身、それを不幸だと思ったことは一度もない。
だからこそ、アイーダがまるで俺が望まない未来を押しつけられているように話していたことが、妙に引っかかった。
そんなことを考えているうちに、ジュリアの教室へ着いた。
朝の話が途中で終わったままだった。それに、授業中ずっと考えていたが、結局、答えは出なかった。
分からないなら、本人に聞けばいい。
そう思って教室へ入った瞬間、思わず足が止まった。
何人もの生徒が、一斉にこちらを見る。先ほどまで聞こえていた話し声が、目に見えて小さくなった。
向けられる視線には、好奇心や気まずさが混じっていた。その中には、明らかに冷ややかなものまである。
婚約解消について確認するため、学園からも何人かの生徒に聞き取りが行われたと聞いている。この教室の生徒も、何人か含まれていたはずだ。
教室の中に、見覚えのある令嬢がいた。
リズベット・カルディア伯爵令嬢。以前、王太子妃候補として名前の挙がっていた一人で、今は別の家の令息との縁談が進んでいると聞く。確か、ジュリアとも親しかったはずだ。
俺は彼女の席へ向かった。
立ち上がろうとしたリズベット嬢を手で制する。
「そのままでいい。ジュリアは?」
「少し前に教室を出ましたけれど」
「どこへ行ったか分かるか?」
「魔法薬研究会ではないでしょうか」
思いもしなかった言葉に眉を寄せる。
ジュリアが?
「……そうか。ありがとう」
そのまま立ち去ろうとして、足を止めた。
リズベット嬢も、婚約解消について証言した一人だ。そしてジュリアと親しい彼女なら、俺よりもジュリアのことを知っている。
聞くべきではないか。
そう思ったものの、口に出すのはひどく躊躇われた。婚約者の気持ちを、その友人に尋ねなければ分からないというのも、随分な話だ。それでも、知らないままにしておくよりはいい。
「……リズベット嬢。もう一つ、聞いてもいいか」
「何でしょう」
教室中の視線がこちらへ集まっているのを感じる。できれば場所を変えたかったが、今さらだった。
「君は、今回の件で証言をしたな。ジュリアから、何か聞いていたのか?」
「何か、というのは?」
「婚約を解消したいと思うほど……何に傷ついていたのか」
口にした途端、自分でも情けなくなった。
リズベット嬢はしばらく俺を見つめていた。呆れているようにも、信じられないものを見ているようにも見える。
やがて、深いため息をついた。
「自分の婚約者が、ほかの令嬢にニヤニヤしていたら嫌でしょう。私は嫌です」
「……」
ニヤニヤ。
俺が?
「……そんなふうに見えていたのか?」
思わず聞き返すと、リズベット嬢が眉を上げた。
「見えていたというか、実際そうでしたけれど」
反射的に教室を見回した。
まずかった。
何人かと目が合い、ものすごい勢いで逸らされる。一人など、明らかに気まずそうな顔をしていた。
――嘘だろう。
アイーダと話しているとき、自分が笑っていたことくらいは知っている。
だが、周囲から見れば。
「…………」
「殿下?」
「……いや」
顔が熱い。
居たたまれなくなり、片手で額を押さえた。
王太子として、公の場で失態を犯したことはほとんどない。それなのに、よりにもよってこんなことで。
「俺は……随分と浮かれて見えていたんだな」
「ええ。それはもう」
即答された。
そこまで言わなくてもいいだろう。
何とも言えない気分のまま、魔法薬研究会の部屋へ向かった。
廊下の端にある部屋へ近づくにつれ、中から何人かの話し声が聞こえてくる。その中に、聞き慣れた澄んだ声があった。
「美容液、ですか。確かに面白いですね」
「でしょう? 傷を治したり体力を回復させたりする魔法薬はたくさんあるのに、肌の状態をよくすることを目的にしたものは、ほとんどないの」
すぐには足を踏み出せなかった。
声が違った。
王宮で俺と話すときの、丁寧で落ち着いた声ではない。友人たちと話しているときとも少し違い、弾んでいて、楽しそうだった。
思わず、開いたままになっていた扉から中を見る。
ジュリアが小さな瓶を手に話していた。
「以前から気になっていたの。私、少し肌が荒れやすくて。王太子妃教育が忙しくなってからは、特にひどくなっていたの。だから、こういうものがあれば便利なのにって」
知らなかった。
もっとも、令嬢の肌をまじまじと見るようなことはない。
だが、王太子妃教育の負担が身体にまで出ていたのか。
「ただ、似たような商品を扱っている商会が反対する可能性はありますね」
研究会の生徒らしい少年が言った。
「新しい商品が広まれば、既存の商品が売れなくなるかもしれませんから」
確かに。以前にも、新しい魔法薬を扱おうとした商会に圧力をかけ、問題になったところがあったはずだ。
「ええ。ですから、アルバイン侯爵家で支援できないかと思っていまして。それに、最初から大きく売り出すのではなく、用途を分けて――」
「なら、ヴァルナー公爵家も乗るぞ」
軽い声の主は、セドリックだった。
「試作品ができたら、うちでも話を通してみる」
「嬉しい。ありがとうございます!」
ジュリアがぱっと笑った。
俺はその顔を見つめた。
ジュリアは今、俺の知らない場所で、俺の知らないことを話し、俺の知らない顔で笑っている。
しかも、その隣にいるのはセドリックだ。
――いつから、あんなに親しかった?
セドリックは以前からジュリアを気にかけていた。何度も俺に忠告していたし、婚約解消を申し入れる際にも付き添っていたと聞いている。
知らなかったのは、俺だけだ。
「それなら、容器も考えたいですね。中身がよくても、使いにくかったら意味がないでしょう?」
「そこまで考えているのか?」
「もちろんです。せっかく作るなら、使ってもらえるものにしたいもの」
ジュリアが笑うたび、妙に落ち着かない。
ジュリアは、王太子妃になることをずっと目指していた。
俺と結婚し、王妃となる。そのために学び続けていた。
俺も、それがジュリアの望む未来なのだと当然のように思っていた。
――もう、王太子妃にはなりたくないのか。
そう考えると、胸が詰まった。
そう思わせたのは、俺なのだ。
「っ……で、殿下?」
研究会の生徒の一人がこちらに気づき、慌てて立ち上がった。
その声につられるように、室内にいた全員の視線がこちらへ向く。
ジュリアも振り返り、一瞬だけ目が合う。
彼女は何も言わず、すぐに手元の本へ視線を戻した。その反応に、胸の奥がまた重くなる。
「ど、どうかなさいましたか?」
尋ねられて、言葉に詰まった。
ジュリアと話をするために来た。
そう言えばいい。
そのはずなのに、なぜか口から出たのは別の言葉だった。
「いや。その……俺も、少し興味があって」
「何に?」
即座に聞き返したのはセドリックだった。
「……魔法薬研究に」
言ってから、自分でも無理があると思った。
セドリックが眉を上げる。
「へえ。殿下が?」
「悪いか」
「いや。初耳だと思っただけです」
ジュリアは何も言わず、本へ視線を落としたままだった。
「でしたら、見学なさいますか?」
研究会の生徒がおそるおそる尋ねる。
「ああ」
答えてから、空いていた椅子へ腰を下ろした。
自分でも何をしているのか、よく分からない。ただ、このまま帰る気にはなれなかった。
「それで……その美容液というのは、どういうものなんだ?」
ジュリアがようやく顔を上げた。
その目に、わずかな驚きが浮かぶ。
考えてみれば、俺が彼女の好きなものについて尋ねたのは、これが初めてだった。




