第四話:知るための旅/第二幕:崩された陣
草地の先は緩やかな斜面になっており、それを越えると浅い窪地が口を開けていた。背丈の低い草が風に撫でられ、ところどころで白い岩が古い骨のように頭を覗かせている。川はもう遠い。木立も疎らで、巨体がどちらへ動いても見失う心配はなさそうだった。
「ここでやるぞ」
エイリクが荷を下ろす。シグも背負い袋を岩陰へ押し込み、剣を抜いた。後方では、枝を折る湿った音が近づいている。
キルミが黒杖を地面へ突いた。握り直した左手の位置を、シグは一瞬だけ目で追い、何も言わずに視線を戻す
「川を離れる前、浅瀬で首から胸の袋へ水を送り込んでいました。飲んでいたのではなく、溜めていたんでしょう」
脈打つ喉と、重たげに垂れ下がっていく半透明の袋。シグの目にも、その光景は焼き付いていた。
エルセリアは窪地の向こうを見渡し、川の方角へ一度だけ目をやってから、短く鼻を鳴らした。
「移動したのは、正解だったかもしれないわね」
ナイアは少し離れた岩の上へ登り、矢をつがえた。エイリクが正面へ出る。エルセリアは右へ、キルミは後方に留まる。シグは左へ動いた。ナイアの射線を塞がず、エイリクの背後へも回れる位置だ。誰かが細かく指示したわけではなかった。
それぞれが動き終えた頃、河岸林の端から巨大な影が飛び出した。
グラディアトルは一度足を止め、頭を低く下げる。肩の筋肉が盛り上がり、太い前脚が地面を掻いた。
「来るぞ!」
四足が大地を蹴る。草を押し潰して迫る巨体は、見た目の鈍重さを裏切る速さだった。シグが身構えた時には、すでにエイリクとの距離は半分に縮まっている。
エイリクは正面に立ったまま、大斧を斜めに構えた。左腕の篭手から《エーテルアイギス》の障壁が広がる。獣の肩がそこへ激突し、鈍い音とともに彼の靴底が土を削った。だが、エイリクは押し返そうとしない。障壁を傾けて身体を横へ逃がすと、巨体は脇を滑るように抜けていった。
止めたのではない。進む向きを変えたのだ。
その通りすがり、巨獣の首が妙な角度に捻れた。目が追っていたのは、斧を持つエイリクでも、駆け寄るシグでもない。後方で杖を構えるキルミだった。
「シグ、左だ!」
考える暇はなかった。シグは踏み込み、すれ違う後脚へ剣を振るう。刃が鱗板の縁を擦った。瓦を重ねたような硬い面を削る嫌な抵抗が手首へ返り、剣先が外へ弾かれる。斬った手応えはあるのに、肉まで届いていない。
浅い。
それでもグラディアトルは後脚を引き、こちらへ頭を向けた。距離を取ろうとしたシグの目の前で、相手の前半身が持ち上がる。
「えっ――」
四足で駆けていた獣が、後脚だけで立ち上がった。盛り上がった肩がさらに高く伸び、巨大な前脚が腕のように振り下ろされる。
シグは横へ跳んだ。前脚が地面を叩き、土と草が爆ぜる。避けたはずなのに、足裏から伝わる震動で膝が崩れた。あれは走るための脚ではない。掴み、叩き潰すための腕だ。
二撃目が来る。シグは剣へ魔力を流し、地面へ向けて《風撃》を放った。風圧に身体が横へ滑り、爪が外套の端を裂いていく。そこへ銀色の刃が割り込んだ。エルセリアだった。雷を纏った剣が前脚の内側を斬り、青白い火花が散る。
「立ち上がったら、正面に残らないで」
「分かった!」
返事を待たずに、彼女は側面へ消えた。言われた通りにしたつもりが、足は半歩遅れていた。次は間に合わせる。入れ違いに、ナイアの矢が頭上を抜ける。鱗板の薄い肩口へ突き立ち、続く二射目が前脚の関節を狙った。深くは刺さらない。ただ、獣の動きを乱すには足りた。
エイリクの大斧が鱗の継ぎ目へ叩き込まれる。獣が低く吠えた。
「硬えな。まともに斬れる場所が少ねえ」
「関節なら多少通るわ」
ナイアが白銀の弓へ魔力を流す。放たれた矢は前脚の付け根を掠めて地面に刺さり、直後、土が盛り上がった。《ヴェルダントスパイク》。鋭い樹根が地中から突き出し、関節の柔らかい部分を一本だけ捉える。巨獣が前脚を振り払った隙に、エルセリアが懐へ潜り、脇腹を雷の刃で裂いた。
「右へ!」
シグは叫びながら走った。エルセリアの退路を塞ぐように、巨獣の後脚が動く。靴へ魔力を流すと、一歩分だけ空中に足場が生まれた。それを踏んでエルセリアの頭上を越え、二歩目は探さずに剣を叩きつける。
風圧が獣の頭を僅かに押した。その一拍後、ナイアの矢が獣の頬を打つ。合図は出していない。
エルセリアが後脚の脇を抜けた。着地で膝が深く沈む。足の裏に、空を踏んだ感触がまだ残っていた。
「助かったわ」
シグは振り返らず、剣を構え直した。エイリクは何も言わず、左を空けたまま斧を引いている。
◇
戦ううちに、巨獣の癖が見えてきた。立ち上がる前には後脚を大きく踏み込む。前脚を振る前には肩が持ち上がる。突進の直前には頭が下がる。
「次は右腕です!」
キルミの声が飛ぶ。直後に右肩が動き、エイリクが一歩退いて爪をかわした。空いた側面へエルセリアが入り、獣が身を捩ったところへナイアの矢が後脚の関節を射抜く。
巨体が傾いた。
「今だ!」
エイリクが大斧を振り上げ、シグも反対側から踏み込もうとした。
「待ってください!」
キルミの声が鋭く裂けた。
グラディアトルの胸が膨らんでいる。半透明の袋が大きく張り出し、青白い光が内側を走っていた。川で溜め込んだ水が渦を巻き、胸から首へ押し上げられていく。
「離れて!」
エルセリアの叫びと同時に、グラディアトルが口を開いた。
轟音とともに、白い奔流が一直線に噴き出す。シグは身を投げ出した。水塊がすぐ脇を過ぎて地面を深く抉り、飛沫に打たれた外套が一瞬で鉛のように重くなる。背後の岩が砕け、破片が降ってきた。水というより、破城槌だった。
「全員、無事か!」
返事をする前に、胸部がもう一度脈打った。今度は扇のように広がり、周囲の草地を薙ぎ払う。シグは剣を地面へ突き立てて身を伏せた。頭上を大量の水が通り過ぎ、草が根ごと剥がれていく。泥が腕を叩き、柄を握る指が滑った。
水煙が薄れた時、五人は潰された陣の欠片のように散らされていた。エイリクは反対側の縁、エルセリアは砕けた岩の陰、ナイアはさらに遠くへ押し流されている。
キルミだけが、獣の正面にいた。泥に足を取られた老いた身体を、杖にすがってようやく半身起こしたところだった。
グラディアトルの胸の袋は、目に見えて萎んでいる。蓄えていた水の大半を、吐き出したのだ。
巨体が四足へ戻った。頭が低く下がる。太い前脚が土を掻く。
向いている先には、黒杖を握るキルミがいた。
「キルミ!」
巨獣が地面を蹴った。
距離がある。今から走っても間に合わない。分かっているのに、足は先に出ていた。
右上腕の内側が疼いた。
あの力なら。
《ヴォイド・コード》。その名が浮かんだ瞬間、右上腕の内側が、脈と同じ拍で打ち始めた。




