第四話:知るための旅/第一幕:水辺の追跡者
河沿いの街道には、湿った土と水草の匂いが漂っていた。
アルヴィオに向かう道は、川の蛇行に従って緩く撓んでいる。片側の河岸林は黒々と沈み、反対側の草地は、風が渡るたびに色を変えた。
エイリクが不意に足を止めた。左手を軽く上げ、川下の林へ顔を向ける。
「……待て。でかいのがいる」
「魔獣?」
ナイアが弓へ手を添えた。エイリクの左手甲には淡い光が滲んでいる。シグも木々の隙間へ目を凝らしたが、枝葉の奥には薄暗い影が重なるばかりで、輪郭ひとつ掴めなかった。
「茂みの奥だ。川沿いを動いてる。こっちへは来てねえ」
「なら避けましょう。少し戻れば、林を迂回できる道があったはずよ」
エルセリアの言葉に、エイリクはあっさり頷いた。依頼の対象でもなく、誰かが襲われているわけでもない。見かけるたびに剣を抜いていては、旅は続かない。シグも柄には触れなかった。
五人は街道を戻り、手前の脇道へ入った。
◇
川音が遠のき始めた頃、エイリクがまた足を止めた。
「妙だな。さっきの奴、まだ近い」
「同じ方角へ動いてるだけじゃないのか」
「いや、寄ってきてる」
エイリクは目を閉じ、短く舌打ちした。五人は河岸林を離れ、草地の外縁をなぞって別の街道を目指す。乾いた草を踏む音に、遠い響きが混じった。重いものが、一歩ごとに土を踏み割っている。
「縄張りに入っちまったのか?」
シグが振り返ると、エルセリアは答えず、視線だけをキルミへ流した。
「それなら、ここまで追ってくる理由がありませんね」
キルミは前を向いたまま言い、黒杖の石突きで地面を一度だけ突いた。
「川はもう見えない。縄張りの外よ」
ナイアの声に被せるように、背後で太い枝が折れた。梢から鳥の群れが弾けるように飛び立つ。足音は、耳で数えられる間隔まで詰まっていた。
林の奥から、巨影が押し出てきた。
風が向きを変え、水草の匂いに、腐った泥と濡れた獣毛の臭いが混じった。
最初に目に入ったのは、異様に盛り上がった肩だった。前脚は柱のように太く、踏み込むたび、肩から背へ筋肉が波打つ。熊に似ている。だが、頭と首の境が溶けるほど首が太く、背から脇腹にかけては、黒灰色の鱗板が甲冑のように重なっていた。鱗の継ぎ目は、泥と水垢で黒く汚れている。裂けた口の縁には、短く太い歯が並んでいる。
胸元には、半透明の袋が垂れていた。陽を透かして鈍く光り、歩調に合わせて内側の何かがゆっくりと揺れる。
「グラディアトルだ」
エイリクの声が低かった。
「水辺に棲む。兵災級だぞ」
ブルータル・ウルサスと同格。気づけば、シグは柄を握っていた。革の巻き紐が、掌の汗で吸い付いている。あの時、足を地に繋ぎ止めていたのは、前に立つ二人の背中だった。今は背中が四つある。それでも、指は離れなかった。
巨獣は林の縁で止まり、頭をこちらへ向けて身を低くした。
「動くわよ」
エルセリアの声で、五人は再び歩き出した。背後の足音は、途切れなかった。
◇
「俺たちを追ってるのか?」
シグが言うと、キルミが足を止めていた。五人の歩みが乱れ、背後の足音が、ひと息ぶん近くなる。
「おそらく、私ですね」
「……やっぱり、そっちか」
エイリクが息を吐いた。責める声ではなく、また雨が降ってきたと嘆くような声だった。シグは三人の顔を順に見た。エルセリアは黙って頷き、ナイアは驚いた様子もなく林を見据えている。
「どういうことだ」
「正確には、こちらでしょう」
小柄な魔導士が黒杖を持ち上げる。つい先ほどまで、神と戦った時の話を聞いていた杖だった。
「契約してから、魔獣との遭遇が妙に増えましてね。私が動けば魔獣も動く。距離を取っても追ってくる」
言葉の切れ目ごとに、足音が近づく。キルミは黒杖を握り直さなかった。
「何十年も続けば、偶然とは呼べません。杖が何を発しているのか、魔獣が何に反応しているのかは、調べてはいますが確かめられていません。結果だけが、繰り返し起きています」
分からないまま、数十年。シグはその言葉だけを、しばらく頭の中で転がした。
「ハーピィも、か?」
「旧工房が彼らの狩場だったこと自体は別です。あそこには古い魔力の残滓があり、集まる生き物を狙っていた。ただ、途中から私へ攻撃を集めたのは」
キルミは黒杖を地面へ下ろした。
「杖の影響が加わった可能性はあります。あの時は少々妙だと思っていましたが、今なら説明がつく部分もありますね。まぁ、呪いの類でしょう」
林が大きく軋んだ。
「……歩きながら聞きましょう」
エルセリアに促され、五人は足を踏み出した。足音は一拍遅れて追い、間隔が元に戻る。
「逃げ続けても終わらないかもしれません。この先には人の往来もあります」
言い終える前に、背後で枝が弾けた。キルミは振り向かず、声の高さも変えずに続ける。
「連れて歩く方が、よほど厄介です」
「人里へは近づけられないわね」
エルセリアが街道の先を見やる。その間にも、地面の揺れが一歩ごとに近づく。エイリクは川の方角と草地を、息一つ分の間で見比べた。
「水辺は向こうの庭だ。引き離したいところだな」
「あの斜面の先はどうだ。木が少ない」
シグが指すと、エイリクは目を細めた。
「悪くねえ。足場も確かめられる」
「私が先に見てきます」
ナイアが弓を背へ戻しかけたところで、林の奥が低く鳴った。
「離れない方がいい。全員で行きましょう」
エルセリアの声は、それまでより一段低かった。
「では、誘導は私が後ろを歩きましょう」
「駄目だ」
考えるより先に、声が出ていた。キルミが黒い目をこちらへ向ける。
「狙われてるのがキルミなら、一人で後ろには置けない。俺がつく。近づいたら知らせる」
エイリクはシグを一瞥し、小さく頷いた。
「止めようとするな。合図だけでいい」
「分かった」
エイリクはそれ以上何も言わず、前へ戻った。ナイアは黙って歩調を落とし、シグの半歩前へ並んだ。矢をつがえないまま構えた弓が、後方を向いている。
五人は草地へ向かった。背後では、枝を押し分ける音が間隔を詰め続けている。
シグは歩きながら、一度だけ黒杖を見た。キルミは平然と前を歩いていたが、杖を握る左手の位置を、先ほどから何度か変えていた。
やがて、林の奥から低い唸りが届いた。
今度は、五人の誰も引き返さなかった。




