第三話:杖の契約者/第四幕:神を見た者
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神暦二四七二年。聖都ノクタルクの黒曜石の尖塔は、黒霧に腰まで沈んでいた。
石畳には神官たちの杖の破片が散っている。紫のステンドグラスを砕かれた聖堂からは、蝋燭の煤が細く流れ出し、遠くで警鐘が鳴り止まなかった。キルミは聖堂へ続く階段の中ほどで、《メル=エルドの黒杖》を提げていた。三十歳。杖と契約して十八年になる。
聖都へ入って半日。結界は三つ破った。神官の防壁も、術式の接続点さえ見つければ解けた。地下通路の封鎖は、妨げにすらならなかった。国一つというのは、思っていたより手間がかかる。その程度にしか考えていなかった。
黒杖が震えるまでは。
掌へ返る細かな脈動に、キルミは眉を寄せた。十八年間、一度もなかった反応だった。左手甲の《深淵の魔紋印》が、遅れて熱を持つ。警鐘の音が罅割れ、階段脇の燭台の火が、風もないのに一本ずつ細くなっていく。
聖堂前の空間が縦に裂けた。銀灰色の髪が滝のように流れ落ち、続いて三メートルを優に超える痩せた巨躯が現れる。黒衣の裾は地へ届く前に煙となって消え、口のない黒曜の仮面には、蒼白い双眸だけが灯っていた。その手は何も握っていない。
キルミはその名を知っていた。ノクタルクの子は、七つで祈りの作法より先にその名を叩き込まれる。ディラザル。終焉を司る神。
神が在ることなど、常識として知っていた。だが、それは一人静かに祈る相手であって、十数段先の石段に立つものではなかった。指先が冷える。気づけば、杖の握りの位置を、親指で一つずつ数え直していた。
蒼白い眼はキルミを見ていない。見ているのは、その手の杖だった。
「……まだ、在ったか」
小さな声だった。霧の囁きに紛れてもおかしくないほどの。
キルミの指が柄を締める。
「これを、ご存じなのですか」
答えはなかった。杖が反応した。偶然ではない。判ったのはそこまでで、それで十分だった。
そして、もう一つ確かめたいことができた。
神には、魔法が通じるのか。
口の端が上がった。キルミは杖を引き、左手甲から黒紫の多重魔法陣を背後へ展開する。放った《アビスランス》は石畳を舐めて奔り、胸部へ向かった。
触れる寸前に、形を失った。爆ぜてもいない。弾かれてもいない。術式との接続も切れていない。ただ、壁へ向けて声を投げたのに、反響だけが抜け落ちたような手応えのなさが、杖を握る腕に残った。
「なるほど」
理解できない現象なら、条件を変えればいい。キルミは石段を斜めに駆け上がりながら杖を振った。正面から黒槍、石柱の裏に遅延術式、神の足元には牢獄を伏せる。一撃目が消えた瞬間に牢獄を閉じた。黒い魔力が四方から巨体へ食らいつき、今度は消えない。
拘束できた、と判断した直後、牢獄の黒に灰色が混じった。数秒前に編んだ術式が、何十年も雨風に晒された石壁のように崩れていく。朽ちる速さが、こちらの組む速さを上回っている。理由は判らない。ならば、崩れるより先に叩き込むまでだ。
神の腕が動くのが見えた。来る、と分かった。それでも避けきれず、視界が横へ飛んだ。背から石段へ落ち、肺の空気が潰れる。転がりながら杖を離すまいと握り込み、石突きが段に噛んで、肩が抜けるほど腕を引かれた。
右脇腹の衣が裂け、皮膚が黒ずんでいる。痛みより先に、布が埃になって崩れていった。
触れた箇所から朽ちる。範囲は掌の幅。予兆は腕の上がる一拍前。分かる。分かっているのに、二歩目を踏み出す前に右脚から力が抜けた。革靴が粉になり、露出した皮膚が乾いた羊皮紙のように罅れていく。遅いのは頭ではなかった。身体だった。
キルミは歯を食いしばり、黒杖を石段へ突き立てた。単発で届かないなら重ねる。拘束が朽ちる前に、逃げ道をすべて潰し、その中央へ最大の火力を置く。牢獄が閉じ、左右から黒槍が殺到し、圧縮された闇が一点で膨れ上がった。
《ブラックノヴァ》。
黒い光が聖堂の壁を呑み、石段を抉った。キルミは爆心から目を逸らさなかった。闇が薄れ、黒い法衣が見える。裾は相変わらず煙になって消えていた。ディラザルは、降り立った位置から一歩も動いていない。
指から力が抜けた。
条件を変えた。距離も変えた。術式も重ねた。何が起きているのかは、途中までなら読めていた。読めたものの中に、使えるものが一つもなかった。
神が一歩進んだ。キルミは杖を構え直したが、先端が定まらない。口の中に鉄の味が広がり、息を吸うたびに脇腹が軋んだ。左手甲へ魔力を流す。浮かんだ魔法陣は、完成する前に灰になって落ちた。
蒼白い眼が、再び黒杖へ降りる。
「……それは、お前のものか」
キルミは荒い息の合間に笑った。
「今は、私のものです」
笑ったつもりだった。頬が引きつっただけかもしれない。神の腕がもう一度上がるのが見えて、背骨の内側を冷たいものが滑り落ちた。次は避けられない。さっきまで数えていた手順が、頭から一つ残らず抜けていく。
「……これは本当に死ぬかもしれませんね」
誰に聞かせるでもない声が、自分でも分かるほど上擦っていた。杖を足元へ叩きつける。残る魔力をすべて注いだ黒槍が石段を穿ち、段が崩れた。この都は、地下のほうが地上より広い。足の下には必ず空洞がある。
落ちた。瓦礫と一緒に地下通路の床へ背から叩きつけられ、肺の空気が出ていった。右脚は動かない。靴の残骸が、指の間から粉になって零れる。
「いえ、死にます。確実に死にます。困りました」
左脚と両腕で床を掻いて這った。杖だけは離さなかった。爪が石の目地に剥がれても、止まる気になれない。丁寧に状況を述べるたび息が喉で引っかかり、笑いにも嗚咽にも似た音が漏れた。
曲がり角を二つ越えたところで、ようやく頭上を仰いだ。崩れた天井の穴から、蒼白い光が細く落ちている。その光は、動かなかった。足音も衣擦れも、追ってくるものは何一つない。
それが何を意味するのか考える前に、三つ目の角で壁へ背を預けた。掌の中で、杖はまだ震えていた。いや、震えているのは、自分の手のほうだった。
◇
街道を渡る風が、シグの外套の裾を鳴らした。
「……それで、生き残ったのか」
「結果としては」
キルミは黒杖の石突きで、路面を一度だけ突いた。それ以上は語らなかった。
神は、遠い国の人が祈るものだと思っていた。人の前に降りてきて、人と戦い、それでも人を生かして去るものだとは、考えたこともなかった。しかもこの人は、自分から挑んだのだ。届くかどうかを、自分で確かめるために。
気づけば、右上腕を掴んでいた。袖の下にあるものには、キルミにある契約の日のような、始まりが見つからない。
傾いた陽が街道を長く照らしている。いつの間にか止まっていた足を、先へ向けた。数歩進んでから、一度だけ振り返る。キルミの手には、あの黒杖がある。
袖の下の皮膚が、ほんの少し温かかった。




