第三話:杖の契約者/第三幕:黒杖に残るもの
「分からないままなのか?」
シグが尋ねると、黒杖の柄をなぞっていたキルミの親指が止まった。
「まさか」
返ってきた声は、先ほどまでと変わらない。
「分からないものほど、調べる価値があります。何が分からないのかさえ曖昧な状態では、調べようもありませんから」
石突きで足元の土を軽く突く。乾いた音が一度だけ鳴った。
「旧工房でも、そうだったのか?」
「ええ。古い魔導具を見て、何ができるかだけ分かっても仕方がないでしょう。なぜその材料なのか、なぜその形なのか。今では廃れた製法を、昔の人間がなぜ選んだのか。残った物から遡っていくんです」
旧工房の床に並んでいた部品を、シグは思い出した。大きさごとに仕分けられた金属片。書き込みで黒くなった紙。キルミは壊れた物を眺めていたのではない。作った人間の手順を、残骸から逆向きに辿っていたのだ。
「この杖も同じです」
キルミが黒い柄を撫でた。
「誰が作ったのか。何のために作ったのか。なぜ私と契約できたのか。《深淵の魔紋印》が私の手に形成された理由も、当然その中に含まれます」
「何か分かったのか?」
「仮説なら」
エイリクはいつの間にか荷紐を締め終えていたが、立ち上がろうとしない。ナイアも空の水筒を受け取ったきり、急かさなかった。エルセリアは街道へ目を向けたまま、耳だけをこちらに残している。遠くで荷馬車の車輪が軋み、やがて聞こえなくなった。
キルミは黒杖を横に倒し、石突きに近い節へ指を滑らせた。刻まれた細い溝が、陽を受けて鈍く光る。
「契約してから、学んだ覚えのない知識が時折あります。初めて組むはずの術式なのに、どこへ魔力を通せばいいのか、手のほうが先に知っている。一度も入ったことのない工房の、金属が焼ける匂いを懐かしいと思ったこともありました」
「杖が教えてるのか?」
「それなら話は簡単なんですが」
口元がわずかに歪んだ。
「声が聞こえるわけでも、頭の中に誰かがいるわけでもありません。知らないはずなのに、知っている。それだけです」
風に煽られた木の葉が一枚、黒杖の節に触れ、そのまま滑って土に散った。
「《メル=エルド》という名の由来も当たりましたが、掴めていません。製作者の名なのかどうかも」
「作った人が、同じ紋章を持ってた?」
キルミの黒い瞳がシグへ向いた。
「私はそう考えています」
シグはキルミの左手甲へ目をやった。
「杖に残っていたものが、キルミの身体に写った?」
「可能性はあります。ただし、証拠はありません」
すぐに付け加える。
「確かなのは、契約前に紋章はなく、契約を境に私自身が変わったこと。自分の経験では出所を説明できない知識があること。ここまでです」
黒杖を立て、両手を重ねた。
「製作者が紋章の元の持ち主だったことも、その人物の経験が杖に残っていることも、私にその経験の一部が渡っていることも、今のところは推測です」
シグは何も言わなかった。旧工房で部品を調べていた時と同じ目が、いま自分の手の中の杖へ向いている。
「ただ、厄介なのはここからでして」
キルミが左の人差し指で、自分のこめかみを軽く叩いた。
「仮に、知識や経験が杖から私へ渡ったのだとします。では、渡ったのは本当にそれだけなのか」
「それだけじゃない?」
「物事の好み。価値判断。何かを欲する強さ。選択を迫られた時に、どちらへ手が伸びやすいか。そういうものまで含まれていないと、証明できますか」
シグは答えられなかった。十二歳から七十五歳まで。キルミの人生から黒杖だけを抜き取り、もう一度生き直して比べることなど、誰にもできない。
「……自分が、自分じゃないかもしれないってことか?」
「そこまでは言いません」
返答は早かった。
「十二までの私が消えたわけではありませんし、それ以降に何を見て、誰と会い、何を選んだかも私の人生です。製作者と私を同じ人間だとも思っていません。ただ、どこまでが契約の影響なのかを切り分けられない。困るのはその一点です」
エルセリアが街道から視線を戻した。キルミと目を合わせたが、口は挟まなかった。
しばらくして、小柄な魔導士が黒杖を握り直す。
「三十歳頃の私は、今よりずいぶん自分の力を買っていましてね」
エイリクが眉を上げた。
「ずいぶん、で済ませるのか」
「当時の評価です。異論は受け付けますよ」
「山ほどある」
ナイアが水筒を荷へ戻しながら、小さく息を吐いた。エイリクは締まりきっているはずの荷紐の結び目を、もう一度引いて確かめている。
「何をしたんだ?」
キルミはすぐには答えなかった。黒杖の頭を指で二度叩き、遠くの稜線を見る。
「ノクタルク教主国の聖都を奪おうとしました」
シグは返す言葉を失った。風に鳴る草の音だけが、妙に近い。
「……奪うって」
「文字どおりです。自分の知識と魔法に、この杖があれば届くだろうと考えていました。どこまで通用するのか試したくて、国を一つ選んだわけです」
「それも、黒杖の影響だと思ってるのか?」
「分かりません」
今度の答えには間がなかった。
「もっと知りたい。自分がどこまで届くのか確かめたい。そういう欲は、今も私にあります。杖がそれを強めた可能性は否定できませんが、当時の私が選んだことまで杖へ押しつける気はありません」
キルミは一度、黒杖を見た。
「その聖都で、ディラザルが顕現しました」
聞き覚えのある名だった。幼い頃に聞いた他国の伝承の中に、確かあった。神の名は覚えていても、何を司るのかまでは思い出せない。
「ディラザルって……」
「神ですよ」
祈りを知らずに育ったシグにとって、神は遠い国の物語の登場人物だった。それが今、仲間の口から、実際にあった出来事として語られている。喉が渇き、空の水筒へ目が泳いだ。ナイアが半歩、シグのほうへ寄った。
「なぜ現れたんだ?」
「《メル=エルドの黒杖》に反応した、と私は考えています。少なくとも、あの時の顕現はこの杖と無関係ではありません。ただ、理由は今も分かっていません」
そこでキルミは立ち上がった。黒杖の石突きが地面を打つ。
「そして当時の私は、その神の前から動きませんでした。杖の影響があったとしても、退かないと決めたのは私です」
シグは顔を上げた。
「……神と、戦ったのか?」
キルミは否定しなかった。




