第三話:杖の契約者/第二幕:契約が変えたもの
街道へ出る頃には、傾いた陽が木々の隙間から長い影を落としていた。土の匂いは乾いたものに変わり、風が汗ばんだ首筋の熱を持っていく。轍の窪みには、昨夜の雨がまだ泥になって残っていた。
キルミは道端の平たい石に腰を下ろした。休憩と見てナイアが水筒を出し、エイリクは荷を降ろして肩を回す。エルセリアだけは立ったまま、街道の先へ一度目をやった。
「私自身って、どういう意味だ……キルミさん」
名を呼ぶ手前で、舌が一拍だけ止まった。
「そのままです。契約の前後で、私の身体には確認できる変化がありました」
水筒を受け取り、一口だけ含む。エイリクは荷の紐を締め直す振りをしながら、耳だけをこちらへ向けていた。
「それまで理解できなかったものが、理解できるようになりました。抽象的な概念、込み入った魔法の理論、膨大な知識を整理して扱う力。扱える魔力も、それまでとは比較になりません」
「杖が知識を教えた?」
「そう単純なら、もう少し調べやすかったでしょうね」
キルミは水筒の蓋を閉めながら言った。
「頭へ流し込まれただけでは説明がつきません。考えるための土台そのものが広がっていた。魔法を学び始めたのは、その後です。ただ、契約前の私が別人になったわけではありません。扱える範囲が変わった、というだけで」
シグは自分の靴の爪先に目を落とした。
《空歩の靴》は、脱げば足は元の足に戻る。履いている間だけ、道具の力を借りているにすぎない。キルミの変化には、脱ぐという手がない。爪先で地面を一度叩くと、締まった土が靴底へ硬く返ってきた。
右腕の袖の内側が、わずかに強張った。《ヴォイド・コード》が現れた時、流れ込んだ力に使い方までは付いてこなかった。今も何を宿しているのかさえ掴めていない。紋章は、選ばれしものが、生まれながらに宿しているもの。シグはそう信じてきた。自分のそれが表へ出た日も、無かったものが生えたとは考えなかった。
「それと、寿命です」
「寿命?」
「私は七十五歳です」
シグの目がキルミの顔へ戻った。ゴブリンの年齢に詳しいわけではない。それでも、アルヴィオへ来る道中で見た者たちと比べれば、尋常でないことくらいは分かる。
「どれくらい生きるんだ?」
「そこは測れていません。確認できているのは、七十五年生きたということだけです。八十年生きる保証にはなりませんから」
シグは口を開きかけ、その数字を飲み込んだ。
「あと、キルミでいいですよ」
唐突に言われ、瞬いた。
「急だな」
「先ほどから、呼ぶたびに少し間が空いていましたので」
少し離れたところで、エイリクが鼻を鳴らした。何か言いたげだったが、ナイアに水筒を押しつけられて黙る。
シグは杖へ視線を戻した。
「じゃあ、キルミ。あんた自身が変わったなら、その杖は道具っていうより――」
「もう一つあります」
キルミが左手を差し出した。
手の甲に、黒紫の線が走っている。中心から幾重にも巡り、小さな魔法陣を折り重ねたような形。生まれつき馴染んだ印というより、精緻な術式を皮膚へ刻んだように見える。
「《深淵の魔紋印》です。契約の以前、私の手にこれはありませんでした。杖に触れた後で、形になったんです」
「……後から?」
シグは一歩近づいた。靴底が砂利を鳴らす。紋章を持つ人間なら、何人も見てきた。誰のそれも、初めから身の内にあったものだ。杖と一緒に手に入るものではない。
「そんなこと、あるのか?」
「実際に私の身体にありますので、『起きた』ことだけは確かですね」キルミは左手を下ろした。
「ありふれた話ではないでしょう。私自身、他に例を知りません」
気づけば、袖の上から右腕を握っていた。自分の腕には、問いかける相手がいない。キルミには杖があり、契約という始まりまである。
「どうして杖と契約したら、紋章ができるんだ?」
キルミはすぐには答えなかった。杖を膝に置き、左手甲の紋様を親指で一度なぞる。
「分かりません」
風が街道の草を鳴らした。
キルミの親指は紋様の上に置かれたまま、しばらく動かなかった。




