第三話:杖の契約者/第一幕:はじまりの杖
旧工房を離れてしばらく、木立の切れ間からアルヴィオへ続く街道が見えてきた。
日は西へ傾き、五人の影を路面に長く投げている。轍に溜まった乾いた土が、踏むたびに薄く舞った。戦いの汗が引いたせいで、冷えた布が背に貼りつく。道は緩い下りで、シグは右足の具合を確かめながら歩いたが、旧工房を出た頃の頼りなさはもう抜けていた。
少し前をキルミが歩いている。背丈よりも長い黒杖が、歩調に合わせてわずかに揺れた。陽を受けても、その表面は照り返しを何一つ拾わない。
シグは何度目かも分からないまま、また杖を見ていた。
攻撃魔法も拘束魔法も見た。ただ、強い魔法を使えるだけなら、ここまで気にはならなかった。鳴き声と飛び方を何度か見ただけで、次に魔獣が来る場所を言い当てた。ナイアの矢も、エイリクの障壁も、シグが空を踏めることまで、分かった端から戦いへ組み込んでいった。自分の靴の癖を、会って間もない魔導士が、自分より先に勘定に入れていたことになる。
「キルミさん」
小柄な魔導士が歩調を落とし、肩越しに半分だけ振り向く。
「はい?」
「さっきの魔法、その杖と関係あるのか」
キルミは杖を見下ろし、「ありますよ」とあっさり答えた。
「これさえあれば誰でも同じことができるのか、と訊かれれば違いますが」
「違うのか」
「杖が勝手に魔法を使ってくれるわけではありませんので。術式を読み、魔力を扱い、必要な形へ組み上げるのは私です」
石突きが小石を弾き、乾いた音が鳴った。
「ただ、今の私に至る始まりが、この杖だったことは間違いありません」
シグは手を伸ばしかけて止めた。キルミは何も言わず、杖の中ほどをこちらへ傾ける。
握ると、見た目よりも細く、冷たかった。節くれた表面は樹皮にも骨にも似ていて、掌の熱だけが吸われていく。何度握り直しても、冷たさ以外のものは返ってこなかった。少し重いだけの、ただの棒だ。
「……何も起きない」
「起きませんよ」
手を離したシグの指が、わずかに遅れた。それなのに、息だけは楽になっている。
キルミが杖を引き取る。
「期待外れでしたか」
「いや」
シグは掌を握っては開いた。冷えが指の付け根に居残っている。
「それなら、もっと簡単な話になってる」
後ろでナイアが、キルミの背とシグを交互に見た。何も言わない。エイリクは大斧を担ぎ直しただけだった。
「どこで手に入れたんだ」
キルミの足が一歩だけ遅れた。
「十二の頃です」
「十二?」
思わず聞き返したが、今のキルミから十二歳の姿を引き出そうとしても、像は結ばなかった。
「ノクタルク教主国にある、古代イル=ラミナ帝群の遺跡で見つけました」
シグの足が半歩止まりかけた。森の地下の光景が蘇る。人が去ってから途方もない時が過ぎてなお動いていた扉。青白い光の流れる溝。侵入者へ魔力弾を放った装置。右足が土を踏む。抵抗なく沈む靴底が、急に古代の遺物としての重みを帯びた。同じ時代の物を、この人は自分よりずっと前から手にしていたのか。
「これも、あの遺跡にあったものなのか」
「同じ古代イル=ラミナの物か、という意味なら、そう考えています。ただし、同じような施設で作られたかどうかまでは分かりません」
断言しない。その言い方だけが、耳に残った。
「十二で、そんな所に何しに行ったんだ」
「さて」
「覚えてないのか」
「六十年以上前のことですから」
「……六十?」
歩幅が崩れ、右足が轍の縁に引っかかった。シグは体勢を立て直しながら、横顔を見る。キルミは前を向いたままだった。
「ゴブリンの集落にいた頃は、拾える物は何でも拾って売りましたから。おそらく日銭目当ての遺跡漁りでしょう。特別な目的があった記憶はありません」
「十二で遺跡漁り……」
「生活というのは、年齢を考慮してくれませんので」
キルミはそれ以上、その頃の暮らしを語ろうとしなかった。街道脇では、風に押された草の穂が一斉に伏せている。
「最初から、そういう見た目だったのか」
「少なくとも、私の記憶では」
「触ったら使えるようになった、ってわけでもないんだよな」
キルミが小さく笑った。
「さすがに、そこまで親切な杖ではありません」
「親切だったら、お前はもう少しまともに育ってたかもな」とエイリクが鼻を鳴らす。
「その可能性は否定できませんね」
「否定しろよ」
シグは緩みかけた口元を戻して尋ねた。
「じゃあ、何が起きたんだ」
返事は少し遅れた。
「契約です。今のところ、それが一番近い呼び方でして」
黒杖を握る指が、節のある表面をゆっくり滑る。
「触れた時に何かが起きました。それは覚えています。それ以来、私とこの杖の間に、それまでなかった繋がりができたことも。ただ、当時の私は十二歳でしたから、起きたことを正確に記録していたわけではありません」
「キルミさんが、契約したのか」
答えはなかった。反対側から荷馬車が一台、軋みながら近づいてくる。五人は道端へ寄った。車輪が土を削って乾いた埃が立ち、キルミは杖を身体の側へ引き寄せて、通り過ぎるのを待った。
「それも、断言できません」
埃の向こうで、黒い杖だけが輪郭を失わずに残っていた。
「私が杖を選んだのか、杖が私を選んだのか。そこからして分からないのです。ただ、名前だけは、触れた拍子に浮かびました。《メル=エルドの黒杖》、と。由来は知りません」
シグは眉を寄せた。これほど物を知る人間なら、もっと明瞭な答えが返ると思っていた。
荷馬車が遠ざかり、五人は再び歩き出した。黒杖は同じ間隔で土を叩く。
「契約して、何が変わったんだ」
キルミは二歩ほど進んでから、こちらを見た。節の上を滑っていた指が、ぴたりと止まっている。
「私自身ですよ」




