第四話:知るための旅/第三幕:半歩の先
地鳴りが踵から膝へ這い上がってくる。
グラディアトルは水に抉られた窪地を、勢いを落とさず渡りきろうとしていた。四本の脚が泥を巻き上げ、鱗板の継ぎ目から白い息が噴く。その進路の先に、キルミがいる。
シグは走りながら、右上腕の内側へ意識を寄せた。森王国の遺跡で、一度だけ自分の意思で呼び出せた《魔力断絶》。あの巨体があの速さで押し出されるのは、魔力が支えているからではないか。そこへ割り込めるかもしれない。だが「かもしれない」でしかなく、未知の力を未知の相手へぶつける賭けは、外れた時に何が起きるかも見えなかった。
紋章の熱が皮膚の下で膨らみかけたとき、視線が勝手に獣の胸へ逸れた。
水を吐くたびに張りを失った袋が、いまは皺を寄せて垂れている。川からは離れた。補給はない。突進は速いが曲がれず、背を覆う鱗板は剣を弾くほど厚い。それでも腹と関節の継ぎ目までは覆っていない。
その向こうで、エイリクが窪地を斜めに切り、巨獣の進路へ走り込んでいた。ナイアは岩の上へ駆け戻りざまに矢をつがえ、エルセリアは濡れた髪を払う手間も惜しんで側面へ回る。キルミ本人は逃げず、黒杖に体重を預けたまま、迫る巨体を測るように見据えていた。左手の甲に紫黒の紋様が浮き、杖の先へ魔力が寄っていく。
右腕から意識を外した。
まだ、使わなくていい。
「キルミ、伏せろ!」
エイリクの怒声に、キルミが膝を折った。直後、巨獣の進路へ半透明の障壁が斜めに差し込まれる。《エーテルアイギス》が軋み、エイリクの身体が泥ごと横へ押し流された。止めきれなかった突進が僅かに逸れ、その隙間へキルミ自身が身を転がす。獣の肩が黒杖の先を掠め、跳ね上がった杖と一緒に泥の上を滑った。前脚の下には入らなかった。
「無事か!」
「ええ。杖も折れていません」
「そっちを先に確かめるな!」
エイリクは篭手を支えた左腕を一度振ってから、そう吐き捨てた。声の割に、目は獣から離れていない。
シグは《風撃》を足元へ撃ち、反動で窪地の縁へ駆け上がった。靴へ魔力を流して空中に一歩を作り、岩場を越える。巨獣が体勢を立て直す短い間に、五人は岩陰へ寄り集まった。
「水は吐くたびに減っています。川から離れたのは幸いでした」
キルミが黒杖の泥を払いながら言う。
「なら、残りも全部吐かせるか」
エイリクが大斧を肩へ担ぎ直した。
「ただし、まともに食らうなよ」
返事の代わりに、ナイアの矢が飛んだ。
◇
後脚に矢が立つ。振り向いた巨獣へ、キルミの杖先から黒紫の槍が飛び、鱗板の一部を砕いた。獣は低く唸り、胸の袋を膨らませる。
「来ます!」
水塊が叩きつけられ、土が砲弾のように爆ぜた。シグは飛沫を頬に浴びながら足を止めず、獣の側面へ回る。冷たさより先に、泥と獣の脂が混ざった生臭さが鼻を突いた。反対側ではエルセリアが水の外へ抜け、ナイアの矢が肩口へ飛んで巨獣に頭を振らせる。五人は近づかなかった。獣が向きを変えるたびに射線を外し、胸が光る頃には、もうそこにいない。二度目は岩を砕き、三度目はエルセリアの退路へ落ちたが、彼女は踏み込む向きを変えて飛沫の外へ抜けた。
四度目の水流は細かった。細い分だけ速く、シグが避けた先にエイリクの背があった。篭手から障壁が広がり、撓んだ透明な面の向こうで水が砕ける。エイリクの膝が沈んだ。シグは首をすくめかけたが、怒声は来なかった。水が途切れると、エイリクは腕を振って滴を払い、半歩だけ、シグの通る側を空けた。
「……ようやくか」
胸の袋は、ほとんど萎んでいた。獣は口を開いたが、出たのは湯気のような息だけだ。代わりに前脚が地面を掻く。水が尽きても、あの膂力は何も減っていない。
「ここからが厄介ね」
エルセリアは頬に張りついた濡れ髪を剣を持たない手で払い、雷を纏わせ直した。
「正面へは出るな。まだ走れる」
エイリクの言葉に、彼女は肩だけで答える。
巨獣が頭を低く下げた。その目が、シグを捉える。
背後には緩い斜面。右手には水が掘った溝。あの質量なら、必ず勢いをつけて来る。途中では曲がれない。
「エイリク!」
「見えてる!」
それだけで十分だった。
シグは斜面へ走った。背後は見なかった。
地面が揺れる。足裏ではなく、肺の底が震えていた。口の中が乾き、柄を握る掌に汗が滲む。奥歯を噛んで、足は緩めなかった。獣の呼気の熱が外套の裾を炙る距離まで、まだだ、と数える。前脚の爪の位置が見えた時、靴へ魔力を流した。
空中に一歩。右斜め上へ足場を蹴って身体を跳ね上げる。獣の頭が真下を抜け、背の鱗板が外套を擦って布が裂けた。勢いを殺せない巨体が、そのまま斜面の下へ突っ込む。曲がろうと脚を踏ん張った先には、すでにエイリクの障壁が立っていた。
ナイアはシグを見ていなかった。視線は、その向こうで踏み込もうとする巨獣の後脚へ向いている。矢は、シグが跳ぶより先に放たれていた。
後脚の関節へ吸い込まれるように刺さり、その傷口を縫うように地面から樹根が這い上がる。足を取られた巨獣が身を捩って二足に立ち上がろうとしたところへ、エルセリアが側面から踏み込んだ。雷を纏った剣が前脚の内側を裂き、青白い火花が散る。
「《アビスプリズン》」
キルミの黒杖から紫黒の魔力が広がり、地面に幾重もの紋様が走った。巨獣の四肢を囲んで黒い拘束が立ち上がる。獣が吠え、筋肉が膨れ、拘束が軋んだ。
「長くは持ちません」
「十分だ!」
エイリクが駆け込む。シグも着地と同時に走っていた。その瞬間、右前脚を縛っていた一本が弾けた。自由になった前脚が振り上がり、エイリクの進路を塞ぐ。
シグのほうが半歩早かった。
拘束に引かれた巨体の腹で、鱗板の薄い部分が一瞬だけ開く。
《風撃》を刃の進む向きと逆へ放ち、剣を加速させた。踏み込んだ右足に不意の荷重がかかり、腰が持っていかれそうになる。奥歯を噛んで軌道を押さえ込む。鱗のない場所は柔らかいはずだった。だが刃が入った途端、皮の下で詰まった筋肉が粘土のように絡みつき、剣速が死にかける。手首から肘へ、逆流する圧が駆け上がった。止めるな、と腕のほうが先に決めたように、シグは肩ごと押し込んだ。
深い傷が刻まれ、獣が身を折る。その頭上へ、黒鋼の大斧が振り下ろされた。首の付け根に鈍い破砕音が響き、巨体は痙攣して拘束を引き裂く。シグは剣を引き抜いて転がり、離れた。
二歩よろめいた獣は、もう一度前脚で地面を掻き、そして横へ倒れた。草地が大きく揺れた。
誰もすぐには近づかなかった。エイリクは斧を構えたまま獣の頭を見据え、ナイアは弓を下ろさず、エルセリアは少し離れて様子を窺う。やがて胸の動きが止まり、エイリクがようやく斧を下ろした。
「……終わったか」
シグは切っ先を地面へ向けた。右肩の筋が引き攣り、指が柄から剥がれない。一本ずつ開いていく。
◇
戦場には、泥と砕けた草の匂いが残っていた。ナイアが黙ってシグの袖をまくり、腕の具合を確かめる。エルセリアはエイリクの篭手に異常がないか見ていた。キルミは少し離れた場所で、黒杖の泥を布で拭っている。
「私と旅をすると、こういうこともあります」
シグは少し考えた。
「なら、ちょうどいいな。こういう相手と戦うのも、修行になる」
キルミが瞬きをする。
「兵災級を修行扱いするなよ」
エイリクが呆れ声で言った。
「次も同じように勝てるとは限らねえぞ」
「分かってるよ」
肩を回すと、まだ痛んだ。
「でも、逃げられない時もあるだろ」
エイリクは何か言いかけ、結局、鼻を鳴らして斧を担ぎ直した。
「では、次はもう少し早く気づけるようにしておきましょう」
「何に?」
「追ってくる魔獣に、です」
シグは思わず笑った。ナイアが手を離し、エルセリアは荷物のほうへ歩き出している。
キルミが杖を持ち替えた。左手の甲の紋様は、まだ消えていなかった。本人は指を折るようにして握り込み、何事もない顔で歩き出す。
シグの視線が、その左手に残った。
口を開きかけたが、鞘の口へ切っ先を合わせる。
その時、右上腕の内側がかすかに疼いた。
戦いの間、一度も使わなかった力。
シグはそのまま、ゆっくりと剣を納めた。




