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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第五章:「知らない世界へ」

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第二話:黒杖のキルミ/第三幕:理屈の魔法

 急降下してきた鉤爪が、キルミの頭上へ迫る。


 エイリクが割って入った。突き出した左腕の篭手の前に、半透明の障壁が噴き上がる。爪が食い込んで硬質な音が弾け、巨体の靴底が乾いた土を削った。


「ぐっ……来るぞ、まだ終わりじゃねえ!」


 ハーピィは居座らなかった。障壁を蹴って翼を打ち、一息に高みへ戻る。入れ替わりに別の一体が左から落ちてきた。シグは誰より前に出ていたが、その頭上を魔獣は見向きもせず越えていく。向かう先は、障壁の陰に立つキルミだった。


 頭上では三体目が翼を開き、羽毛の縁に魔力の光を走らせている。


「伏せて!」


 ナイアの声に身を沈めた直後、砥ぎ上げられた刃物の群れのような羽が空を裂いた。崩れかけた旧工房の石壁にも、錆びた梁にも、釘を打ち込むような乾いた音を立てて突き立つ。鉄錆と獣の脂が混じった臭気が、舞い上がった土埃の中で鼻を刺した。


 避けた先で四体目が翼を振り抜き、横殴りの風がシグの体を押す。踏ん張った足が砂を滑り、そこを狙って二射目の羽が飛んでくる。剣で《風撃》を叩きつけると、風圧が羽の軌道を逸らし、頬のすぐ横を一本が抜けた。熱い筋が走り、遅れて血の匂いがした。


 一体が風を起こし、別の一体がそこへ羽を撃ち込んでくる。偶然の噛み合いではない。


 ナイアの弓弦が鳴り、上昇中の翼が捻れた。キルミが杖を向ける。


「《アビスランス》」


 黒槍が脇を掠め、魔獣の高度が大きく崩れた。別の一体がキルミの背後へ回り込むと、エルセリアが踏み込んで雷を纏った銀刃を振り下ろす。鉤爪と剣が噛み合い、青白い火花に悲鳴が混じった。それでも逃れた個体は、傷を負ったまま首をキルミへ戻した。


 シグは空を数えた。六体。攻撃を受けても散らず、旋回の位置を入れ替えながら、一体が前へ出るたびに残りが別の角度へ回る。


「……なるほど」


 キルミが呟いた。杖は下がったままで、視線だけが群れを追っている。


「おい、突っ立ってんじゃねえ」


 エイリクが低く唸り、舌打ちしながら障壁を構え直した。キルミは答えない。


 一体が甲高く鳴いた。別の一体が左へ膨らむ。


「ナイアさん、右上です」


 ナイアは問い返さず、体を反転させて弓を引いた。右上から落ちてきた影の翼端を矢が掠め、羽毛が数枚散る。


 シグはキルミを見た。未来を見ているわけではない。鳴き声のあとに一体が前へ出て、別の一体が横へ回り、風と羽で獲物を動かしてから最後の一体が降りる。


 ――魔法の理屈の側から組み上げる。


 エルセリアの言葉が、ようやく目の前の小柄な背中と重なった。


 また一体が高度を上げる。《風撃》を放っても、風圧が届く前に魔獣は翼を一打ちして射程の外へ逃れた。奥歯を噛んで、足元を見た。


 《空歩の靴》。まだ使いこなせないと分かっていた。それでも、相手が降りてくる時にしか剣を振れない自分が、どうにも我慢ならなかった。


 地を蹴り、跳躍の頂で魔力を流す。足裏に、何もないはずの硬さが生まれた。踏むと、体がもう一段空へ上がる。風を放つと、魔獣は身を翻し、風の刃は羽の先を散らしただけで抜けた。右足へ魔力を送って二歩目を踏み込んだ瞬間、足場が思っていたより外側に生まれた。腰が流れる。空には、姿勢を戻すための地面がない。


 向きを変えたハーピィの鉤爪が迫る。三歩目を作りかけて、やめた。剣先を横へ向けて風を噴かせると、腕を持っていかれ、肩の関節が軋んだ。反動で体が弾かれ、爪が服の端を裂いて通り過ぎる。


 そのまま落ちた。着地の衝撃が踵から膝へ突き上がり、奥歯が鳴る。立ち上がっても、柄を握った掌が細かく震えていた。シグは柄を指で二度叩き、震えが刃へ伝わっていないのを確かめてから構え直す。さっき空を蹴った右足は、まだ地面を信用しきれていなかった。一歩目の硬さは確かだった。二歩目は、自分の欲だ。


 一歩なら使える。二歩目から欲張るな。


 顔を上げると、キルミと目が合った。小柄な魔導士は何も訊かず、すぐ空へ視線を戻す。


「シグさん。一歩だけ、もう一度お願いできますか」


 返事の代わりに、剣を肩へ担ぎ直した。


「《アビスプリズン》」


 黒い魔力が宙を走り、檻のようにハーピィの周囲を塞ぐ。捕らえ損ねた一体が開いた側へ逃げ、その先へ矢が飛んだ。魔獣が身をひねってかわす。シグは魔獣の行く手へ走った。ナイアの矢が、その一歩先を抜けていく。


 空を踏む。今度は上がりすぎない。狙うのは体ではなく、逃げようとする側面だった。《風撃》を押し出すと、手応えは羽を撫でたほどに軽い。それでも魔獣の軌道は曲がり、曲がった先へ黒い檻が伸び、行き場を失った翼を矢が貫いた。


 ハーピィが墜ちる。地面へ触れる前にエルセリアが踏み込み、雷の閃きとともに悲鳴が途切れた。


 荒く息をつくシグの胸に、奇妙な軽さが残っていた。羽ほどにしか感じなかった一撃が、ナイアの矢とキルミの檻の間で、確かに魔獣の進路を変えた。


「次が来ますよ」


 キルミはもう空を見ている。残る五体のうち二体が旋回を狭めていた。やはり中心はキルミだ。


「でしたら、利用しましょうか」


 彼は仲間から数歩離れた。


「おい、わざと開ける気か」


「ええ」


 エイリクは舌打ちしたが、言い終える前に、もう落下点へ肩を入れていた。一体が翼を畳んでキルミへ落ちる。《エーテルアイギス》と鉤爪が激突し、障壁が軋んで巨体が沈んだ。その肩越しに、黒杖の先が覗く。


「《アビスランス》」


 黒槍が魔獣の胸を貫いた。


 仲間が落ちた途端、上空の動きが変わる。四体が散った。


「逃げるわ」


 エルセリアが剣を払って言った。


「ここを狩場にしているなら、残すのは危険ですね。ナイアさん、あちらを」


 キルミが杖を左へ振る。ナイアは短く頷いて弓を引いた。逃げる影が矢を躱して膨らめば、その先に黒い檻が生まれる。シグは駆けた。もう二歩目は踏まない。跳んで一段だけ空を踏むと、足裏の硬さは今度は思い描いたとおりの位置にあった。そこで止め、風で退路を押し潰す。肩へ返る反動も、先ほどのように腕を持っていかれず、素直に骨へ収まった。追い込まれた影へ仲間の攻撃が重なり、群れの形を失った魔獣は、さっきまでとは別の、ただの獣に成り果てていた。


 最後の一体が墜ちた。


 荒い息を整えながら剣を下ろす。足裏には、空を踏んだ硬さがまだ居座っていた。


 キルミは何事もなかったように黒杖の土を払っている。その指が杖の握りを一度だけなぞって、止まった。


 シグは倒れた六体を見下ろした。シグを裂こうとした爪も、エルセリアに焼かれた翼もある。それなのに、いくつもの嘴が、キルミのいる方角を向いていた。

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