第二話:黒杖のキルミ/第二幕:キルミ・ニェッカ
その視線を受けて、シグはわずかに背筋を伸ばした。値踏みの色はない。ただ、何かを確かめるような目だった。
「キルミさん」
ナイアがもう一度呼ぶと、ようやくキルミの目がシグから離れた。
「お久しぶりです、ナイアさん。エルセリアさんも、エイリクさんも」
「遅いですよ」
ナイアはキルミの前まで歩み寄り、腰へ手を当てた。口調は穏やかなのに、普段より半歩近い。
「連絡をいただいてから、ずいぶん待ちました」
「申し訳ありません。興味深いものを見つけてしまいまして」
悪びれもせず答えて、キルミは手の中の金属部品へ視線を戻す。ナイアの眉がわずかに上がった。
「……そういうところは変わっていませんね」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「褒めていません」
その脇をエイリクが通り、床一面の紙と部品を見回した。踏み場を探して片足を宙に止め、鼻に皺を寄せる。油と錆と古い紙の匂いが、閉じた空気の中で濃くこもっていた。
「相変わらずだな。よく三日でここまで散らかせる」
「分類してありますよ。そこは踏まないでください」
「どこだ」
「右です」
「右のどれだ」
「足元の真鍮です」
エイリクは黙って足を引いた。エルセリアが口元だけで笑う。
「前より悪化してない?」
「研究量が増えた、と言っていただきたいですね」
四人のやり取りを、シグは少し離れて眺めていた。やがて視線が、足元の部品へ落ちる。
散らかっているように見えて、並びには筋がある。ねじ山の刻みが細かいものから順に、手前から奥へ。ナイアに小言を言われながら、キルミの目はずっと真鍮の位置を追っていた。
街道で遭ったゴブリンたちは、槍と弓で獲物を囲んだ。アルヴィオの門では、革前掛けをつけた一匹が帳面を捌いていた。そして目の前のこの男は、古い部品を物差しのように並べ、一つずつ比べている。
同じ種族だというのに、どれも同じ姿には見えない。
「ところで、そちらの方は?」
キルミがこちらを向いた。
「シグ・フリューゲン。今、一緒に旅をしている仲間よ」
エルセリアに促され、シグは一歩出る。
「シグです。よろしく」
「キルミ・ニェッカと申します。よろしくお願いします、シグさん」
差し出された手は小さく、握ると指先に薄い硬さがあった。キルミはそれ以上こちらを見ることもなく、あっさり手を離した。
「何を調べてたんだ?」
訊くと、キルミは待っていたように一枚の図面を拾い上げた。
「この工房で昔使われていた、紋章魔具の製造法です。今のアルヴィオには残っていない加工が、いくつか見つかりましてね」
紙の上には細い線と数字が詰まっていて、シグには半分も読めない。
「古い方が優れてるのか」
「いいえ」
返事は早かった。
「不便だから消えた技術もあれば、単に効率の悪いものもあります。ただ」
キルミは図面と、分解された金属筒を見比べる。
「なぜそう作られたのかが分かれば、今の形になった理由も分かります」
シグは腰の剣へ目を落とし、それから右の袖口を見た。
なぜそうなったのか。分かる者がいるのなら、あの時、自分の腕に何が起きたのかも、いつか辿れるのかもしれない。
口を開きかけた時、外で大きな羽音がした。
ばさり、と、乾いた布を叩くような音だった。続いて甲高い鳴き声がして、窓の下の茂みが激しく揺れる。小さな獣が一匹、転がるように駆け抜けていった。
エイリクの表情が変わった。左手の甲に光が灯る。《五感強化》。狼人の耳が立ち、顔がゆっくりと天井へ向いた。
「……増えてる」
「何が?」
シグは剣の柄に手をかけた。
「さっきはいなかった。上だ」
言い終わらないうちに、崩れた屋根を巨大な翳りが横切った。吹き込んだ風が積まれた紙をまとめて巻き上げ、舞い上がる白の向こうで梁が低く軋む。
「ああっ、待ってください!」
紙を追いかけたのはキルミだけだった。
「そっちかよ!」
エイリクが怒鳴る。
シグは飛んできた一枚を反射的に掴み、キルミの胸へ押しつけた。その間にも、二つ、三つと翼の陰が窓を掠める。粉のような埃が頭上から降り、梁の継ぎ目で何かが割れる音がした。
「ここじゃ持たないわ。出るわよ」
エルセリアの声に、ナイアがすでに弓を取っていた。シグの立つ右側だけを空けて、扉へ向かう。エイリクは先に扉の枠へ手をかけ、振り返りもせずに言った。
「左は任せる」
返事を待たずに、エイリクは外へ出ていった。キルミは部屋の隅から黒杖を掴んで、最後に出てきた。
紙より杖が先なのかと、シグは妙なところで感心した。
外は陽が強く、目の奥が白んだ。見上げた空に、翼の群れが輪を描いている。
体躯は人と変わらない。ただ、広げた翼はその倍に及ぶ。鳥に似た胴から獣じみた四肢が突き出し、後脚には鎌のように湾曲した鉤爪が下がっていた。嘴が開くたび、牙めいた突起が陽を弾く。羽ばたきのたびに風圧が降りてきて、足元の砂が細かく鳴った。
「ハーピィですね」
キルミが目を細めた。
「知ってるのか」
「ええ。ただ、ここを狩場にしているとは知りませんでした」
エイリクが崩れた塀のそばを見ていた。転がる白いものは、獣の骨だった。
「さっき見た骨は、こいつらの食い残しか」
軒下には、泥にまみれた羽毛が引っかかっている。キルミもそれを見て頷いた。
「工房に残った魔力に、獲物が寄ってくるのでしょう。それを狙って居着いたのだと思います。私たちも、餌の一つに数えられたようですね」
上空で鳴き声が重なる。降りてくる気配はない。円を描きながら、じっとこちらを見ている。
シグは剣を抜いた。数は五つ。いや、屋根の陰にもう一つ動くものがある。数えているうちに、妙なことに気づいた。
旋回の中心が、ずれている。
翼が傾くたび、嘴の向きが一点へ収束していく。シグはその先を目で辿る。
「……キルミさん」
呼ぶと、キルミが振り向く。
「こいつら、あんたを見てる」
エイリクの耳がぴくりと動いた。
「俺にもそう見える」
「おや。人気者ですね、私は」
声が終わるより早く、一体が翼を畳んだ。落下に近い速さで、真っ直ぐキルミへ来る。
シグが踏み出した時には、キルミの右手がもう動いていた。
黒杖を引き寄せる。鈍く沈んだ黒が、空気を薙いだ。さっきまで紙と部品に埋もれていた小柄な研究者の手に収まると、それは道具というより、長く使い込まれた何かの一部に見えた。
急降下する一体は、最後まで狙いを変えなかった。




