第二話:黒杖のキルミ/第一幕:旧工房跡に残るもの
アルヴィオを出たのは、朝の鐘が鳴って間もなくのことだった。
北東の門を抜けてしばらくは、荷馬車の轍が深く刻まれた街道が続いた。やがて四人はそこを外れ、地図に記された小川を右手に見ながら、雑木の茂る丘陵へ分け入った。先頭を行くエイリクの背を追いつつ、シグは前夜に眺めた地図を頭の中で広げ直す。等高線が混み合う斜面と、その手前で途切れる細い破線。「旧工房」と書き添えられた三文字は、あまりに素っ気なかった。
半日ほど歩いた頃、木立の向こうに石壁が現れた。
「……あれか」
近づくにつれて、一棟ではないと分かった。低い石造りの建物が斜面に沿って点在し、崩れかけた塀がそれらを囲んでいる。屋根は所々が落ち、壁には蔦が這い、煙突だけが枯れ木のように何本も空へ突き出していた。石の積み方も粗い。先日潜った遺跡の、継ぎ目すら見えない壁とは違う。ここでは、人の手が一つずつ据えた石の凹凸が、そのまま風雨に晒されていた。
あの地下には、造った者の手が離れてなお動き続ける不気味さがあった。ここにあるのは、使う者を失って朽ちていくだけの建物だ。折れた荷車の車軸。軒下に残る石炭の滓。錆びた鉄枠の窓。誰かが働いていた時間だけが、置き去りにされている。
エイリクが足を止めた。左手の甲に淡い光が灯り、《狩猟王の刻印》から走った光が手首へ広がる。《五感強化》を働かせるあいだ、狼人の耳は左右へ向きを変え、鼻先が小さく震えた。
光が消える。
「近くに獣はいない。人の匂いは……奥だな」
「いるの?」とエルセリアが訊いた。
「油が強すぎて嗅ぎ分けられねえ。ただ、何かは動いてる」
エイリクは短く鼻を鳴らし、大斧の柄に触れもせず歩き出した。
◇
半ば外れた扉を抜け、一番大きな建物へ入る。
古い油の臭いが鼻の奥にまとわりついた。床板には灰色の埃が積もり、壁際には歯車や金属筒、用途の知れない器具が並んでいる。天井から垂れた鎖が、風もないのにわずかに揺れていた。どこか建物の奥から、低い軋みが途切れずに響いている。遠い水車を思わせる音だった。
エルセリアが胸元の首飾りへ指を添えた。
「弱いけれど、ずっと同じ強さで震えてる」
「古い工房には、魔力の残りかすが染みついてるもんだ」
「ええ。だからこの中では、人ひとり分の魔力なんて拾えないわね」
シグは数歩進んでから足を止めた。
「ここだけ、埃がない」
床に細い跡が続いている。壁際にあった木箱が引き出され、その周りだけ石床の色が違った。蓋は開いたままだ。保管棚の扉もいくつか開いているが、中身が床へぶちまけられた様子はない。
「あのゴブリン、街を出たのは三日前だって話だったな」
エイリクが箱を覗き込んでぼやく。エルセリアは答えず、棚の並びを端から端まで目で撫でていた。
机の上には、大小の部品が整然と置かれていた。輪状の金具、曇った魔石、細い導線を巻いた芯。似た形のものが寄せられ、その横には黄ばんだ紙束が重ねてある。シグが一つへ手を伸ばしかけ、指を止めた。部品の下に、文字と数字を詰め込んだ小さな紙片が敷かれている。隣の部品には、また別の紙片があった。
「キルミか?」
問いに、ナイアが机の端へ身を寄せた。紙には触れず、目だけを動かして列を追う。
「たぶん、そうです。変わってませんから」
「これで分かるのか」
ナイアは一列に並んだ金具を指した。
「探し物だけ持っていく人なら、こうはしません」
言われて見直す。同じに見えた金具は、厚みも刻まれた溝の数も揃っていなかった。それが似たもの同士、微差の順に並べられている。少し離れた机には、形のまるで違う部品まで置かれていた。何かを一つ探しているのではない。ここに残されたものの全部を、片端から読もうとしているのだ。
シグは腰の剣へ手を触れた。
この剣に魔力を流せば風が立つ。どれだけ流せばどれだけ出るかは、今の自分の手が知っている。だが、何が魔力を風へ変えているのかは、一度も覗こうとしなかった。目の前の紙片には、その「内側」を解こうとした指の跡が並んでいる。
柄に掛けた指が、そのまま動かなかった。使い慣れた剣が、急に握り方を問われているように感じられた。
「……これを全部、読む気なのか」
「キルミなら、やるでしょうね」
エルセリアは奥の扉を見ていた。声は平らだったが、首飾りに添えた指がほどけるまで、少し間があった。
◇
奥の区画には、作業台が何列も残っていた。
朽ちた冊子や図面が棚から抜かれ、床には紙束が積まれている。抜かれた箇所だけ棚板の埃の層が薄く、頁の間には木片が挟まれて、開くべき場所を示していた。傍らでは古い金属筒が分解されている。壊したのではない。ねじを一本ずつ緩め、順に外し、外した順に並べてあった。
エイリクの足音が、いつの間にか消えていた。耳が奥へ向いている。ナイアも気づいたのか、足を止めた。
声が聞こえた。
「……この接続では、蓄積量を増やしたところで先に導路が焼けますね。では、こちらを分けた理由は……いえ、それなら二系統にする必要がない」
男の声だった。話し相手がいるような口ぶりで、返事はない。
「効率を捨てた? まさか。職人がそんな理由で部品を一つ増やすはずが……ああ、そうですか。逆ですね。壊れることを前提に――」
声が途切れる。紙の上を筆が走る音だけが、しばらく続いた。
エイリクが鼻から長く息を吐き出す。
「間違いねえ。あの野郎、本当にいやがった」
奥へ向いていた耳が、わずかに動いた。先へ出ようとしたところを、エルセリアが片手を上げて制する。エイリクは足を止めた。
ナイアが先に奥へ進んだ。
開いた扉の向こうは、床が見えないほど紙と部品が広げられていた。中央に、小柄なゴブリンが座り込んでいる。茶褐色の肌に頭髪はなく、魔導士のローブには埃が積もっていた。片手に古びた部品、もう片手に紙と筆。周囲に散らばる分解済みの器具は、いつでも元の形へ戻せるよう、順序立てて並んでいる。
その傍らに、一本の長杖が立て掛けられていた。
黒い。工房の薄暗がりに紛れるはずの色なのに、シグの目はそこへ引かれた。装飾のために黒く塗った木には見えない。煤とも違う。杖そのものが、光を呑んでいるように見えた。聞いていた姿が、一つずつ目の前の光景に重なっていく。
ナイアが呼んだ。
「キルミさん」
筆が止まった。
顔を上げるより先に、黒い瞳が紙面からナイアへ動く。それからエルセリア、エイリクと順に渡り、最後にシグで止まった。
「……おや」
キルミ・ニェッカは、持っていた部品をそっと置いた。
その目だけが、シグのところで止まったままだった。




