第二話:災厄の来訪/第五幕:絶望の入り口
シグは炎の中を駆けていた。
「アルベルト! アンナ! ヨハン!」
煙で前が見えない。目を開けていられないほどの熱気と灰の向こうから、かすかにヨハンの叫びが届いた。シグは声のした方向だけを睨みつけ、瓦礫を飛び越え、立ち上る火柱の隙間を縫って走った。
「ヨハン! どこだ!」
喉が焼ける。
「シグ!」
炎の向こうから、ヨハンの声が返ってくる。
崩れかけた屋根の下。ヨハンが必死に手を伸ばしている。アンナも一緒だ。そのさらに奥、アルベルトが黒く焦げた分厚い梁を肩で押し上げ、逃げ遅れた村人を外へ押し出そうとしている。
「アルベルト!」
叫び声に気付いたアルベルトが振り向き、目が合う。
「シグ! こっちだ!」
梁を支えたまま、アルベルトが力強く頷いた。「あと少しだ!」荒い息を吐きながら声を張る。その顔には、焦りと同時にシグを見つけた安堵が浮かんでいた。
あと十歩ほど。追いつく。目の前だ。あそこまで踏み込めば、手が届く。
「今行く!」
シグは靴底を削るように地面を蹴った。
その直後だった。
ズゥン――。
腹の底まで響く揺れとともに、頭上から巨大な影が降ってきた。シグの足が止まる。黒い獣の巨体が、二人の間の空間を完全に潰していた。息が詰まる。
獣がゆっくりと首を巡らせた。巨体の頭部で、青く灯った双眸がシグを捉えた。憎しみも苛立ちもない。ただ眼下の障害物を検分するような、どこまでも無機質な冷たさ。視線が縛りつけられて離せない。
真っ黒な甲殻は生き物の皮膚というより、重なり合った溶岩の塊だった。隙間から覗く不気味な青黒い光が、心臓の脈打ちとは違う不規則な周期で明滅している。
獣は唸り声すら上げない。咆哮も、荒い息遣いもない。爆発音と炎の猛威の中で、そこだけが空間ごと切り取られたように静まり返っていた。それが魔獣ではなく、生きていない何かに思え、ぞっとする冷気が背筋を駆け上がった。
足が後ろへ退きかける。シグは震える手で柄を握り締め、ゆっくりと剣を抜いた。金属の擦れる音が虚しく響く。膝が揺れていた。指先の感覚がない。それでも刃を相手に向けた。
「……どけ」
掠れた声だった。
獣は身動ぎひとつせず、シグを見下ろしている。その沈黙が、どんな咆哮よりも恐ろしい。
「シグ!」
ヨハンの悲鳴が飛ぶ。「来ちゃ駄目!」アンナが叫ぶ。
シグが前へ一歩踏み出すのと同時に、獣が太い前脚をおもむろに持ち上げ、そして踏みつけた。
石畳が砕け散る。吹き荒れた衝撃波に煽られ、シグは後ろへ弾き飛ばされて硬い瓦礫に背中を強く打ち付けた。激痛に息が止まる。それでも泥を舐めながら立ち上がり、握り直した剣を掲げた。
もう一歩、前へ。
その姿を見て、梁を支えるアルベルトが顔を歪めた。
「……来るな」
絞り出すような呟き。
「シグ、逃げて!」
泣き叫ぶヨハンの声とアンナの悲鳴が混ざり合う。足を進めれば届くはずだ。あと少し踏み込めば、救えるはずだ。
そう信じていた、その瞬間。
ミシッ……。
頭上から嫌な音が響いた。燃えさかる家屋の骨組みが大きく傾く。アルベルトが顔を上げた。
「逃げろォッ!」
シグの叫びと同時に、アルベルトがアンナとヨハンを外へ突き飛ばした。だが、崩落の方が速い。腹に響く重音とともに、巨大な屋根ごと全体が崩れ落ちる。巻き上がる火の粉と、激しい粉塵。
ほんの僅かな距離。飛び込もうと踏み出した右足を、巨体の巨躯が遮る。左へ躱そうとすれば、まるで影法師のように正確にその視界が塞がれた。逃がさないのではない。通さないための壁。ただそれだけのために、あの怪物はそこにいた。
「シグ……!」
瓦礫と猛火の向こうで、ヨハンの声が途切れた。
シグは泥を蹴って前に出ようとした。動かない。黒い甲殻の壁が、目の前の世界を完全に覆い尽くしている。あとほんの数歩。伸ばせば届くはずの距離が、底の開いた断崖のように遠い。
奥歯が軋むほど噛み締め、柄を握る指に血が滲む。喉の奥から、言葉にならない掠れた息が漏れた。
(頼む、届いてくれ)
(あと少しだけでいい……)
黒い獣は、なおも道を塞いだまま見下ろしている。背後で、生まれ育った村の風景が次々と音を立てて崩れていく。大切なものはすべて、あの黒い壁に遮られていた。
頭の片隅で、今すぐ逃げろと警鐘が鳴り続けている。ここで引けば死なずに済む。けれど、踏み止まらなければ全員を失う。
生き延びるという選択肢が、頭の片隅にすら浮かばなかった。
シグは砕けた爪の間から血を滲ませ、なおも折れそうな両腕で剣を掲げる。
届くはずがない。
勝てるはずもない。
それでも、一歩の地団駄ですら後ろへ引くことは許さなかった。




