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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第三話:絶望の果てに/第一幕:退かぬ者

2026/8/24 改稿

 震える腕で剣を構えたシグに向かい、黒い魔獣の前脚が振り下ろされた。


 咄嗟に横へ跳ぶ。


 直後、石畳が砕けた。跳ね上がった破片と衝撃に身体をさらわれ、瓦礫の上を転がる。肩を強く打ちつけ、肺から息が漏れた。


 それでも剣は放さなかった。


「シグ!」


 炎の向こうからヨハンの声が届く。


「こっちへ来るな!」


 アルベルトの叫びが重なった。


 煙の切れ間に三人の姿が見えた。アンナは瓦礫の陰でヨハンを抱き寄せ、その奥ではアルベルトが崩れかけた家屋の前に立っている。


 生きている。


 まだ、助けられる。


「……待ってろ」


 シグは立ち上がった。


 目の前では、黒い魔獣が進路を塞いでいる。


 青い瞳がこちらを向いた。怒りも警戒もない。立ちはだかるシグを敵として認識しているのかさえ分からなかった。


「どけぇぇぇッ!!」


 地面を蹴る。


 狙ったのは前脚の関節。


 騎士団の訓練で何度も繰り返してきた踏み込みから、一気に懐へ潜り込む。魔力も紋章もない。頼れるものは身体へ叩き込んできた剣技だけだった。


 刃を斬り上げる。


 甲高い金属音が響き、火花が散った。


 浅い。


 外殻に白い傷が走っただけだった。


 シグは返す刃を継ぎ目へ叩き込み、そのまま横へ抜けようとする。


 その瞬間、黒い巨体が僅かに沈んだ。


「――っ!」


 尾が薙ぎ払われる。


 剣を引き戻す暇もなく、凄まじい衝撃が脇腹を捉えた。身体が宙へ浮き、瓦礫を跳ねて壁へ背中から叩きつけられる。


「がっ……!」


 呼吸が止まる。


 手から剣が滑り落ちた。


 咳き込む口の中へ鉄の味が広がる。右腕には痺れが走り、指先が思うように動かない。


 それでも、視線だけは前へ戻した。


 黒い魔獣は追ってこない。


 シグへ止めを刺そうともせず、再び歩き始めている。


 その先には、アルベルトたちがいた。


「待て……」


 右手を地面につく。


 力が抜けた。


 左手で身体を支え直し、膝を立てる。


「待て!」


 立ち上がった。


 だが、もう剣を振り上げることはしなかった。


 分かってしまった。


 斬れない。


 自分の剣では、あの外殻を破れない。騎士たちが束になっても止められなかった怪物を、自分一人で倒せるはずがない。


 なら、倒す必要はない。


 シグは息を整えながら、魔獣と周囲へ視線を走らせた。


 前脚の運び。肩の向き。尾の位置。視線。そして、踏み荒らされた石畳と崩れた壁、炎に塞がれた路地。


 訓練で何度も教えられた。


 相手だけを見るな。


 足場を見ろ。間合いを見ろ。逃げ道を見ろ。


 使えるものは、すべて使え。


 正面は無理だ。


 左手には炎が回り、路地を抜けられない。だが右手には、崩れた石壁と魔獣の胴体との間に僅かな隙間がある。


 その向こうに三人がいる。


 魔獣に勝つ必要はない。右側の隙間さえ抜けられれば、アルベルトたちのところまで行ける。


 必要なのは、あそこまで辿り着くための一瞬だけだ。


 シグは左手で剣を拾い上げた。


 利き腕ではない。握りは弱く、切っ先も僅かに震えている。


 それでも構えた。


 今度は、魔獣を倒すためではない。


「……行くぞ」


 駆け出す。


 正面から懐へ飛び込むと見せかけ、前脚が動いた瞬間に進路を変えた。


 右へ。


 瓦礫の狭間へ身体を滑り込ませ、そのまま巨体の脇を抜ける。


 抜けられる。


 そう思った瞬間、黒い魔獣が半歩だけ身体をずらした。


 進路が塞がれる。


「くっ!」


 シグは足を止めず、すぐ脇の石壁へ駆け上がった。


 横が駄目なら、上から越える。


 崩れた壁の頂点を蹴り、その身を宙へ投げる。黒い背が眼下へ沈み、このままなら向こう側へ着地できる。


 青黒い稲妻が外殻を走った。


 靴底へ触れる。


「がぁッ!」


 全身の筋肉が強張った。


 身体が空中で動きを失い、剣が指から抜け落ちる。そのまま石畳へ叩きつけられ、肺の空気が押し出された。


 手足が動かない。


 ぼやけた視界の中で、黒い脚が横を通り過ぎていく。


 また届かなかった。


「シグ、来るな!」


 アルベルトの声が飛んできた。


「お前まで死ぬぞ!」


 分かっている。


 このまま立てば死ぬ。


 次は避けられないかもしれない。


 それでも、その向こうに三人がいる。


「……嫌だ」


 指先を動かす。


 石畳を掻き、肘を立てて身体を引きずった。


「もう……誰も……」


 失いたくない。


 黒い魔獣の前脚が持ち上がり、巨大な影がシグを覆った。


 逃げる力は残っていなかった。


 それでも頭を庇うことはせず、片膝を立てて魔獣を見上げる。


 せめて最後まで、こいつの前にいる。


 アルベルトたちの方へは行かせない。


 前脚が振り下ろされた。


 その瞬間、横合いから白銀の衝撃が叩き込まれた。


 空気が爆ぜる。


 魔獣の前脚が僅かに逸れ、シグのすぐ横へ落ちた。


 石畳が陥没する。


 衝撃に身体を転がされながら、シグは顔を上げた。


「シグ!」


 聞き慣れた怒声。


 煙の向こうから、トーマスが走ってくる。


 鎧は砕け、額から血を流している。右腕も完全には上がっていない。


 それでも剣を握っていた。


 その後ろから、生き残った騎士たちが続く。


 盾兵、槍兵、弓兵。無傷の者など一人もいない。それでも互いの隙間を埋めながら、黒い魔獣と村人たちの間へ再び陣形を作った。


「隊長……」


 トーマスはシグを見ず、魔獣だけを見据えていた。


「立てるか」


「……はい」


 嘘だった。


 脚は震え、右腕にはまだ力が戻らない。


 トーマスが一瞬だけ横目を向けた。


「なら、ここを離れろ」


「ですが――」


「命令だ」


 低い声が遮る。


 シグは言葉を失った。


「お前が今するべきことは、こいつを倒すことじゃない」


 黒い魔獣がゆっくりと振り向く。


 青い瞳がトーマスたちへ向いた。


 騎士たちが盾を構える。


「まだ生きている者を救え」


 炎の向こうを見る。


 ヨハン。


 アンナ。


 アルベルト。


 さらにその奥には、崩れた家々と逃げ遅れた人々がいる。


「俺たちが時間を稼ぐ」


「でも、このままでは隊長たちが――」


「分かっている」


 トーマスは短く遮った。


 剣へ白銀の魔力が集まり始める。


 先ほどまでより、明らかに弱い。


 それでも構えは揺らがない。


「誰かが立たなければならない」


 トーマスが一歩前へ出た。


「あの日、教えたはずだ」


 シグは顔を上げる。


「騎士の務めは、敵を倒すことじゃない」


 忘れるはずがなかった。


「守るべき者を守り抜くことだ」


 その背中を追うように、騎士たちが前へ出る。


「行け、シグ!」


 トーマスの怒号が飛ぶ。


「第一小隊! 押し返せ! 全員、叩き込め!」


 盾兵が踏み込み、槍が突き出される。矢が頭上を越え、白銀の衝撃が黒い巨体へ炸裂した。


 一斉攻撃を受けた魔獣の身体が半歩だけ押し流される。


 道が開いた。


 シグは走った。


 戦うためではない。


 助けるために。


 黒い巨体の脇を抜け、瓦礫を跨ぎ、炎の間を駆ける。


 踏み込むたびに脇腹が疼き、痺れの残る右腕が揺さぶられる。感電した脚も思うようには上がらない。


 それでも足を止めなかった。


「アルベルト! アンナ! ヨハン!」


 名前を呼びながら、ひたすら前へ進む。


「今行く!」


 炎の壁を抜けた。


 視界が開ける。


「シグ!」


 ヨハンの声。


 崩れかけた家屋の前で、小さな手がこちらへ伸びていた。


 傍らにはアンナがいる。


 さらに奥では、アルベルトが倒れた梁を全身で支え、逃げ遅れた村人を外へ押し出そうとしていた。


 全員、生きている。


 シグは限界を迎えた脚へ力を込めた。


 あと少し。


 ヨハンへ向かって、一気に腕を伸ばした。

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