第一話:旅の続き/第三幕:知らない景色、知らない顔
セリア森王国を発って三日目、街道の景色は深い森から、疎らな雑木と草地の混じる丘陵へ変わっていた。
隊商は荷馬車四台、護衛はシグたちを含めて八人。日が傾く前に野営地を決め、荷車を円く寄せ、馬に水をやる。夜は二人ずつ火の外に立った。最初の晩、シグは古参の護衛について周囲を歩いた。二日目は水場までの足跡を確かめ、三日目には御者が手綱を引くより先に街道脇の草地へ降りて、地面に指を突いた。
「ここなら荷車を寄せられる。向こうは斜面だから、夜はそっちを見た方がいい」
古参の男は土を一度見て、「いいんじゃねえか」とだけ返した。革の帳面を膝に載せた隊商主が顔を上げ、値踏みするようにシグを見る。
「若いのに手回しがいい。頼むよ」
頷いてから、誰の顔色も見ないまま口を開いていたことに気づいた。
休憩の合間、シグは《空歩の靴》に魔力を通した。一歩目は虚空が足を受け止める。続く左足は狙いより半足ぶん遠くへ足場を結び、身体が横へ泳いだ。腰を落として草を二歩踏み、勢いを殺す。魔力を多めに流してみると、足場は出るのが早くなっただけで、位置は余計にぶれた。
弓の弦を張り直していたナイアが顔を上げた。
「今のは惜しかったですね」
シグは靴底を見たまま呟いた。
「今回は行けたと思ったんだけどな」
エイリクは篭手に魔力を通した。
「一歩目まではな」
前腕の先に障壁を浮かべては消す。大斧を握ったまま展開したとき、柄を掴む指の関節が白くなった。少し離れた場所では、白月の霊弓に魔力を走らせるたび、鏃の周りで淡い光が揺れる。
「昔もこうだったわね。手に入れた物を片っ端から試して」
草に腰を下ろしたまま、エルセリアが言った。
「お前が言うな。宿の壁を焦がして弁償したのは誰だ」
「あなたが避けたからでしょう」
「室内で撃つからだろ!」
ナイアが声を立てて笑う。シグの知らない宿の話だった。以前ならその隙間へどう入ればいいかを考えたはずだが、今は靴底に残る痺れの方が気にかかり、もう一度足を上げた。
「シグ、行くわよ」
立ち上がったエルセリアは、こちらを見ないまま歩調だけ緩めた。
◇
四日目の昼過ぎ、先頭の馬車が森の手前で足を緩めた。街道を一本の倒木が塞いでいる。幹は大人が二人で抱えても回らないほど太く、枝葉が道幅いっぱいに広がっていた。
シグは荷車の脇を抜けて近づいた。根には土が付いている。だが枝の一部だけが不自然に払われ、迂回できそうな路肩には、切り落とされた枝が積み上げてあった。荷車を止め、脇へ逸らすための置き方だ。
考えが形になる前に、声が出ていた。
「止めてください!」
御者が手綱を絞る。後続の馬が鼻を鳴らし、車輪が土を噛んで止まった。座席から身を乗り出した隊商主が「何事だ」と言いかけ、シグが答えないのを見て口を閉じる。
エイリクは理由を聞かなかった。左手の甲に《狩猟王の刻印》が淡く浮かび、狼の耳が森へ向く。
「左右にいる。六、七だ」
風を裂く音がした。
「伏せろ!」
短矢が降る。シグは剣を抜き、刀身へ魔力を流して振った。《風撃》が弾け、正面の二本が横へ煽られる。一本は側板に浅く刺さり、もう一本は車輪の脇へ転がった。続けて石が飛び、エイリクの腕の先で薄い障壁が瞬いて、拳ほどの塊が乾いた音を立てて跳ねた。
森から小柄な影が二つ、射撃に紛れて最後尾の荷車へ回り込む。茶褐色の肌、短槍と小盾。シグは右足へ魔力を流しかけて、やめた。二歩目がどこへ出るか分からない足場を、荷車と人の間で試すわけにはいかない。地面を蹴る。
小盾が前へ出た。間合いへは入らず、横薙ぎに振り抜く。腕に返ったのは、刃が食い込む重みではなかった。力だけが刀身から抜け落ち、一拍遅れて、数歩先の小さな身体が二つ、土埃の中を滑っていく。軽すぎる。受け止める気で落とした腰が、空を切ったように前へ流れた。
直後、視界の端を白い光が走った。ナイアの矢は、シグがこれから踏む地面を最初から外し、射手の潜む幹へ突き立つ。反対側では、エルセリアが荷車へ迫る一体の短槍を銀の刃で払い、踏み込みを止めていた。護衛の列から、三歩と離れていない。
射手が護衛の顔を上げさせ、その間に別の連中が積荷へ走る。倒木も、路肩の枝も、そのために用意された道具だった。
森の奥で、短く甲高い声が響いた。
動きが変わる。射手が先に退き、街道へ出ていた者が続く。転んで立てない一体を、仲間が肩へ担いだ。担がれた小さな顔が、去り際にこちらを振り返る。牙の間から荒い息が漏れているのに、目だけは冷えていた。
「逃がすか!」
若い護衛が剣を握り直す。シグにも追えた。距離はまだ詰まる。踏み出しかけた踵を、地面へ押し戻す。
「追わなくていい!」
自分の声が、思ったより通った。剣を下げても、指が柄から離れない。担がれた背中が、まだ目の端に残っている。依頼は野盗を捕まえることではなく、荷と人を届けることだ。そう思い直すまでに、一拍の間が要った。
「積荷の覆いに矢穴が一つ。馬は無事です。肩を打たれた人が一人いますが、歩けます」
隊商主のもとへ報告に行くと、男は帳面へ何か書きつけてから、「早いな」とだけ言った。
倒木の枝を払いながら、若い護衛が唾を吐いた。
「ゴブリンなんざ、棍棒を振り回すだけの連中だと思ってたが」
「棍棒だけの連中が、木を倒して枝まで積むかよ」
古参が切り口を親指でなぞる。
「腰に群れの印がねえ。はぐれだな。東の峠から流れてきたのかもしれん」
「さあな」
エイリクが斧を担ぎ直した。
「似た稼業の奴なんぞ、ゴブリンに限らず、いくらでもいる」
◇
それから数日、すれ違う荷車が増えた。積まれているのは木材から鉱石の箱、布を被せた細工物へと変わっていく。旅人の腰には、工具箱を提げた者が目立ち始めた。
丘を越えたところで、先頭の御者が鞭を持った手を上げる。遠くに街壁が見えた。その向こうには幾筋もの煙が立ち、風に乗って金属を打つ甲高い響きが届いてくる。門へ続く街道には荷馬車が列を作り、陽を受けた積荷の隙間で、磨かれた金属や色硝子が瞬いていた。
門前では、革の前掛けをした小柄な男が荷札を検めていた。茶褐色の肌に、鋭い牙。隊商主の帳面を受け取ると、器用な指で手早く印を押し、目も上げずに次の荷車を呼ぶ。
ゴブリンだった。
シグは歩調を緩めた。森で振り返ったあの目と、いま帳面に印を押している手が、うまく重ならない。
「……あれが、アルヴィオか」
依頼札に書かれていた名前が、ようやく景色になった。




