第一話:旅の続き/第二幕:行ったことのない場所へ
セリア森王国を発つ話が出たのは、朝食の皿が下げられてからだった。
宿の一階では、卓を拭く布の音と、厨房から漏れる食器の触れ合う音が続いていた。焼いた黒パンと燻し肉の匂いがまだ梁に残り、窓から差す朝の光は淡く、床板に細長い影を伸ばしている。
四人が囲む卓の中央には、エルセリアの広げた地図が置かれていた。折り目には旅の埃が溜まり、角は擦り切れて丸くなっている。
「キルミから返事が来るまで、ここで待つ必要はないと思う」
エルセリアが街道の線を爪の先でなぞる。
「連絡はギルドを通して届く。動きながらでも受け取れるわ」
「俺は構わん」
エイリクは椅子の背に体重を預け、太い腕を組んだ。地図には手を出さない。
「ナイアは?」
問われたナイアは、湯気の消えた茶碗を両手で包んだまま、少し間を置いてから頷いた。
「私も。手掛かりは、ここでは途切れているから」
シグは、茶碗を包むナイアの指先を見た。誰も続きを促さなかった。
エルセリアにも急いで向かうべき土地はなく、エイリクの懐にも、先に約束した傭兵仕事はない。ならば行き先は依頼次第という話になり、四人は宿を出た。
◇
朝の冒険者ギルドは、革と汗と蝋の匂いで濁っていた。広間の壁一面を覆う掲示板には依頼札が幾重にも重なり、順番待ちの冒険者たちの外套が、板の前で人の壁を作っている。
シグはその隙間へ肩を差し入れた。シイバを出てからは、こういう場所で読む札はいつも目的の付属物だった。逃げ道に近い町の依頼、ナイアの捜し物に繋がりそうな噂。今日は、何に繋げる必要もない。
「そっちは割がいい」
背後からエイリクが低く言い、指で一枚を弾いた。鉱山跡に巣食った魔獣の討伐で、報酬の欄には、隣の札の倍近い数字が並んでいる。
「四人なら受けられる。俺は嫌いじゃない」
「……ああ」
シグは頷いたが、視線は動かなかった。数字の並ぶ札を通り過ぎ、板の隅で端の反り返った一枚に止まる。
隊商護衛、セリア森王国発、エルバ自由都市同盟・アルヴィオ行き。日程は十一日。報酬は相場より少し下で、急ぎの文言はどこにもない。
「アルヴィオって、どんな街なんだ?」
受付台の向こうで帳簿を繰っていた女が、羽根ペンを止めた。
「工房の街だよ。工芸に錬金術、紋章魔具。それに宝飾だね。細工の腕なら、世界でも指折りだって話さ」
「宝石なら、見るだけにしておけよ。値札を先に読め」
「見るだけなら無料ですよ。たぶん」
ナイアが小さく言うと、エイリクは「たぶんを付けるな」と返した。
シグは札の縁に指を掛けたまま、しばらく動けなかった。
知らない街だった。待っている者も、追わなければならない手掛かりもない。名を呼ばれたわけでもなく、ただ文字を目で追ううちに、胸の奥の一点が、そこへ向けて傾いている。
「これ、受けたい」
声は思ったより硬く出た。エルセリアが、札とシグを順に見る。
「理由は?」
「行ったことがないから」
言ってから、あまりに軽い答えだと思った。札を押さえた指先に力が入り、紙の端が汗でわずかに湿る。
エルセリアはすぐには答えなかった。片眉だけを上げ、やがて肩の力を抜くように息を吐く。
「別に構わないわ。行き先の理由が、毎回大層である必要はないもの」
「護衛は何人体制だ」
エイリクはもう受付台に肘を置いていた。
「八人。うち二人は古参で、街道の宿場にも顔が利く」
「峠は?」
「東の峠で、去年の秋に野盗が出た。今は巡回が入ってる」
エイリクは受付台から肘を外し、腕を組んでシグを見た。
「割は悪いが、悪すぎもしない。夜営の位置さえ選べるなら、行けるな」
顎で札を示す。
「札を剥がすなら丁寧にやれ。破ると受付に怒られる」
「アルヴィオなら、私の方に支障はないですね」
ナイアが言う。
「ギルドの網はあの辺りまで届きますし、情報は道々で拾えますから」
答える声は落ち着いていたが、話しながら、鞄の肩紐を何度か握り直していた。
シグは札を剥がした。乾いた糊が指の下で小さく音を立て、紙がめくれる。
エルバ自由都市同盟・アルヴィオ。
剥がした札を折りかけて、シグは手を止めた。
行き先の文字を、もう一度読む。
それから札を畳み、受付へ向かった。




