幕間:追うには足りる
第二章~第三章、第三章~第四章間に、それぞれ幕間エピソードを追加しております。
本エピソードは第二章~第三章の幕間エピソードに直接つながる内容となっておりますので、未読の方は是非ご確認ください。
エルバ自由都市同盟東部。街道沿いの宿を借り上げた一室で、ガイゼン・ローディスは報告書を読んでいた。
窓の外を荷馬車が通るたび、車輪の軋みが薄い壁を震わせる。帝国の施設ではない。扉の向こうでは宿の女将が客と値段を巡って言い合い、階下からは酒と焼いた肉の匂いが上がってくる。獣脂蝋燭の炎が隙間風に煽られ、卓上に広げたサヴァール周辺の地図の上で、影が絶えず揺れていた。地図の端には、木彫りの駒が束になって転がっている。
「本人だと思いますか」
向かいに座る副団長のルーベンが訊いた。聞き取り記録の角を揃える手は止めない。
ガイゼンは答えず、一枚目へ戻った。
証言者はサヴァールの傭兵。リューン王国が捜している青年の特徴によく似た男を見た、という。年齢、髪と瞳、背格好。傭兵が直接揉めたのはその男だ。連れは女が一人と、大柄な狼人。
『紋章を見せろと言っただけだ』
その横に、聞き取りを担当した騎士の筆で補足がある。
――拒まれ、腕を掴もうとして同行者に制止された。名乗りはなし。
ガイゼンは補足の文字を指先で二度叩いた。
「名は」
「聞いていません。本人も口にしていないそうです」
「紋章は」
「確認できず」
「なら、この男が見たのは『似た者』までだ。本人と書くな」
「報告書の上では、そうなります」
ルーベンは紙を一枚ずらした。
「ただ、別口の聞き込みでも似た一行が確認されています。サヴァールを離れた時期も合う。西へ向かったという証言が二件。うち一件は、バルサへ続く街道で見たと」
「推定としては十分だ。本人として動く」
「断定はせず、追うには足りる、と」
ガイゼンは答えず、地図上のサヴァールから指を滑らせた。街道を西へたどれば、バルサへ至る。紙の上なら指一本で済む距離だった。実際にはその間に宿場があり、枝道があり、商隊と旅人が絶えず行き交う。一日遅れれば、その一日は地図の線よりはるかに長い。
「エルバを疑ったのは、消去の結果だ。帝国へ自分から来るはずがない。セリア森王国へ向かう理由も確認できない」
「人の流れに紛れるなら、ここ、というわけですか」
「そうだ」
「バルサへ人を増やしますか」
ガイゼンの指が止まった。
「今からか」
ルーベンは答えなかった。サヴァールの男が本人だったとしても、それはすでに過去の話だ。バルサへ着く頃には、さらに先の街にいるかもしれない。
ガイゼンは別の報告書を取った。
「金は」
「証言を取るのに多少。口の堅い連中ほど高くつきます」
「やり方は好かん。だが、帝国の名で脅すよりはましか」
「ここでは第七紋章騎士団の徽章に、逮捕状ほどの価値はありませんからね」
「逮捕状にもならん。他国だ」
エルバへの入国を拒まれているわけではない。剣を帯びることもできる。だが帝国法を執行する権限は、国境を越えてついてくるものではなかった。強引に身柄を押さえれば、騎士団ではなく帝国の問題になる。金で開く口はある。金で見なかったことにする目もある。
◇
日が落ちると、新しい報告が二つ増えた。どちらも現在地を示すものではない。
ルーベンは集めた記録を日付順に並べ直しながら言った。
「仮に、あの男が本人だとします。故郷には戻れず、エルバへ入り、そのまま西へ。働かなければ食えません」
「傭兵か」
「傭兵団に入れば所属が残ります。あの年齢で、土地にも組織にも縛られず仕事を取りながら動くなら――」
「冒険者か」
ガイゼンは椅子へ深く座り直した。筋は通る。
「ギルドは」
「名簿を見せろ、と? 正式に頼んでも断られるでしょうね。他国の騎士団に、登録者の情報を渡す理由がない。やり方を見誤れば、こちらが何を探しているかまで売られます」
「なら名簿はいらん」
ルーベンの手が止まった。
ガイゼンは地図を引き寄せ、バルサだけを見ていた視線を周囲へ広げた。冒険者なら仕事を受ける。護衛につけば商人が顔を覚える。討伐へ出れば、獲物はどこかで金に換えなければならない。姿を消したところで、人との接点までは消せない。
「バルサへ送る予定だった者を分けろ。主要都市と、街道沿いの宿場。国境は、出入りを見られる者を使う」
「広げれば、一か所あたりは薄くなります」
「構わん。捕らえるための配置ではない」
ガイゼンはサヴァールとバルサを結ぶ線の上から、駒を一つ退けた。
「見つけるためだ」
ルーベンはしばらく地図を眺め、バルサの駒にも指をかけた。
「後を追わせる者は?」
「いらん」
その駒も外された。
「我々がサヴァールへ着いた時、あの一行はもういなかった。冒険者なら、一つの街には留まらん」
空いた場所へ、小さな駒を置いていく。道が交わる場所、人が集まる都市、国境へ抜ける街道。置くたびに、地図の上で乾いた音が鳴った。
「次に現れた場所を拾え」
ルーベンは黙って頷き、報告書を束ね始めた。
「現地の協力者には、どこまで知らせます?」
「年齢と人相、同行者の特徴まで。未知の紋章については出すな」
「名前は?」
ガイゼンの手が一瞬止まった。
「出せる相手にだけ出せ。情報を買うつもりが、噂を撒くことになっては意味がない」
扉へ向かったルーベンは、取っ手に手を掛けたところで振り返った。
「見つけた場合は、これまでどおりですね」
「変わらん。所在を報告させろ。勝手に手を出すな」
副団長が出ていくと、階下の喧騒がわずかに遠のいた。
ガイゼンは地図の前に残った。サヴァールからバルサへ伸びていた一本の線は、もう追跡路には見えない。その先には無数の街道が枝分かれし、名も知らぬ宿場や都市へ散っていく。
最後に残った駒を摘み、どの都市にも置かず、掌で転がしてから地図の脇へ落とした。
そして傭兵の聞き取り記録を手元へ引き寄せ、補足の一行をもう一度なぞった。
シイバから戻った者たちが語ったのは、周囲の声が届かず、ただそこに立っていた少年だった。サヴァールの傭兵が語るのは、腕を掴まれかけて拒み、連れに庇われる男だ。
同じ人間の話にしては、噛み合わない。




