第五話:自分の意思で/第一幕:黒を向ける先
紋章から滲んだ黒が、指の隙間からこぼれ落ちた。
石床に触れた途端、闇そのものを流したように広がっていく。
違う。
止めたいのはそこじゃない。
「離れて!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。エルセリアが振り向く。視線が一瞬シグの右腕へ落ちて、すぐに逸れた。
「エイリク、ナイア! シグから離れて!」
理由を問う声はなかった。エイリクは振り向きもせず《エーテルアイギス》を解くと、答えより先に動き出していた。大斧を担ぎ直しながら、斜め前へ踏み込む。ナイアは矢筒へ手をやりながら反対側へ跳び、二人が開いた隙間へレヴァナントの意識を引きずり込んでいった。
黒はなお広がる。床を這い、左へも枝分かれしていく。伸びる先にエルセリアがいる。
「くそ……!」
シイバでも見た光景だ。何に触れ、どこまで広がるのかも分からないまま、周囲のものを呑み込んでいった。
今度は違うはずだった。使うと決めたのは自分だ。消したいものも分かっている。
なのに、力は言うことを聞かない。
床を這う先端がまた伸びる。
止めろ。
念じても変わらない。力任せに押さえ込もうとして、奥歯が軋んだ。右腕の内側を何かが際限なく抜けていく。握った指が震え、足元の影だけが増えていく。
――違う。
エルセリアとの訓練で、何度も同じ失敗をした。一度に全部を動かそうとして、何も掴めなくなる。
黒そのものを見るのをやめ、自分の内側へ意識を向ける。
魔力の流れがある。腕の奥から紋章を通り、何か別のものへ変わって溢れ出している。
止めるな。まず一つ。左へ伸びる流れだけを意識する。
戻れ。
先端が震えた。ほんの僅かだったが、広がりが止まる。
「……できる」
次は足元だ。右腕から床へ落ちる流れを、指の力加減を探るように細くしていく。汗が顎から落ちて石を叩いた。広がっていた黒が揺らぎ、後退していく。
やがて右腕の先へ、一本の濁流となって集まった。
その向こうでは、大斧と長剣がぶつかり合い、金属音よりも重い音が響いた。魔力供給を受け続けるレヴァナントに押され、エイリクの足が石を削った。
「こっちに構うな、シグ!」
エイリクが吠えた直後、狙いすましたナイアの一矢が、寸分違わずレヴァナントの膝裏を射抜いた。
シグはそちらを見なかった。床を走る青白い光だけを追う。
あれだ。
消すものを選ぶんじゃない。向ける先を選ぶだけでいい。
右腕を突き出す。
「行け……!」
収束した黒い筋が伸びていく。青白い流れに触れた瞬間、音が消えた。
ぶつかったのでも、押し返したのでもない。光が、そこから先へ進めなくなった。
《エーテルアウト》
名を教えられたわけではない。それでも、その言葉が頭の奥から浮かび上がった。
黒い筋が影のように拡がり、レヴァナントへ流れ込む奔流を端から呑み込んでいった。
床を走る筋が途中で断たれ、壁際の設備が一つ、また一つと暗転する。レヴァナントの正面を歪めていた熱気がほどけ、焼けつくようだった空気が急速に冷えていく。身体を覆っていた膜が薄れ、振り上げられた長剣が目に見えて鈍った。崩れかけた肉体を無理やり支えていた力そのものが緩み、レヴァナントの膝が浅く沈む。
できた。
そう思った直後、右腕が引かれた。
黒の流れが止まらない。断ち切った地点を越え、供給経路の奥へ潜り込んでいく。床の溝から光が次々と失われ、遠くの設備まで明滅を始めた。
「止まれ!」
腕を引いても、先端は伸び続ける。方向は分かる。だが、どれだけ出せばいいのかが分からない。
内側から力を吸い出される感覚に膝が沈む。視界の端が滲み、耳の奥で自分の脈だけが大きく鳴った。
「シグ!」
駆け寄ったエルセリアが右腕へ手を伸ばしかけ、触れる寸前で止める。
「向きは変えないで」
「でも、止まらない!」
「それでいい。向きだけ保って」
エルセリアが紋章へ左手をかざす。
《クレド・ジャッジメント》
淡い光が右腕を包んだ。途端に、勢いが落ちる。堰を下ろされた奔流のように出力だけが絞られ、それでも消えず、シグが定めた方向へ伸びたままだった。
「出力はこちらで抑える。あなたは流れを離さないで」
「……分かった」
レヴァナントがこちらへ顔を向ける。踏み出した足へ、また矢が突き立った。体勢を崩したところへ大斧が叩き込まれ、巨体が軋みながら押し戻される。
シグは右腕へ意識を戻した。
絞られた流れなら、もう追える。腕の奥から紋章を通り、黒へ変わる。その流れを、今度は自分で閉じていく。
訓練でやったように、少しずつ。
抜けていく感覚が細くなる。
「もう少し……」
黒い筋が縮む。床を這っていた最後の一筋が右腕へ引き戻され、消えた。
静かになる。
荒い息のまま、シグは自分の右腕を見た。《ヴォイド・コード》は黙っていた。
顔を上げると、すぐ隣にエルセリアがいた。少し離れた場所でエイリクが歯を見せて大斧を構え直し、その向こうでナイアは表情も変えず、次の矢を番えていた。
全員いる。
指先から、ようやく余計な力が抜けた。
正面から、長剣が石床を擦る音がした。
魔力の供給を断たれても、レヴァナントは倒れていない。崩れた肉体を軋ませながら、それでも剣を持ち上げる。力を失ってなお動くその姿は、魔力に守られていたときよりも、ずっと剥き出しに見えた。
シグは《風撃の剣》を握り直す。
ここから先は、四人で終わらせる。




