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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第二話:災厄の来訪/第三幕:迎撃戦

 調査隊が村へ帰還した時には、すでに灰色の混迷がすべてを呑み込み始めていた。


 東門へ向かって這うように伸びる避難の列。杖に縋る老人の肩を支える者、声も無く引き攣れた顔で子を抱きすくめる母親、泥に輪を奪われかけた荷車を死に物狂いで押す若者たち。その脆弱な群れの側面に、中隊の騎士たちが不揃いな鉄の壁となって立ち並んでいる。


 混乱はある。だが、壊滅には至っていない。隊長トーマスの発する低く短い怒声が、辛うじて村という巨大な器官を機能させていた。


 不意に、腹の底を震わせる地鳴りが届く。今度は誰一人として叫ばなかった。悲鳴すら、近付いてくる死の足音に押し潰されていた。ただ誰もが静まり返り、己の運命が歩み寄ってくる方向を見つめていた。


 トーマスは北西の深林を見据えたまま、一度も振り返らずに命じる。


「王都へ早馬を立てろ。同時に、西方軍本隊へもだ」

「はっ……! しかし隊長、伝令の内容は……」

「『神災級』の出現。そう伝えろ」


 若い騎士の息が止まった。神災。騎士団の古い教本、その破られた羊皮紙の端にしか記載されていない、国が一つ消える危険度だ。


「迷うな、走らせろ!」

「は、はいっ!」


 二騎の馬が狂ったように馬車道を蹴り、東の街道へ消えていく。巻き上がった砂塵が朝靄に溶けていくのを確かめると、トーマスはすぐ脇に立つ少年に視線を落とした。


「シグ」

「……はい」

「列を止めるな。誰が倒れようと、避難を最優先にしろ。……戦うのは、俺たちの仕事だ」


 簡潔な命令だった。その声に一切の揺らぎはない。シグは深く息を吐き出し、込み上げる焦燥を殺して頷いた。


「了解しました」


 剣の柄へ手が伸びる。だが、引き抜くことは許されない。今、この鈍色の鉄を抜くべきではないことを、自分自身が一番理解していた。トーマスの鋭い視線がそれを制している。シグは唇を噛み締め、避難列の後方へと背を向けた。


 北西の霧が、生き物のように大きく揺れた。


 地鳴りの間隔が詰まる。やがて、樹齢数百年の大木が、まるで腐った藁のように砕け散った。


 森を割って現れたのは、異質な漆黒だった。


 太く、歪んだ四肢。一本、また一本。黒い外殻を覆う青黒い幾何学模様が、おぞましい鼓動に合わせて明滅している。前足が土を踏みつけるたび、衝撃波となって土煙が爆ぜた。続いて姿を現した巨大な胴体は、無数の棘を背に生やし、分厚い甲冑のような肩を揺らしている。額の中央、歪んだ紋章のごとき核から、音もなく黒い稲妻が走っていた。


 誰ひとり、声を発することすらできない。それは魔獣などという生易しい存在ではなかった。


 トーマスは静かに視線を走らせる。足取り、筋肉の弛緩、地面への沈み込み。戦場で鍛えた目が、答えを導き出す。


(――勝てない)


 死の予感が背筋を凍らせる。だが、トーマスは喉の奥で息を呑み込み、静かに腰の剣を抜いた。銀色の刀身に右手の掌を沿わせる。


 トーマスに宿る《衝撃の紋章(ブラスト・エンブレム)》が、鈍く、重い光を放ち始めた。肉体から流し込まれた魔力が鉄を侵食し、刀身の周囲の空気が歪む。


「全軍、迎撃陣形」


 静かな声だったが、それは通底する絶望を吹き飛ばす重みを持っていた。


「前衛、盾を組め!」


 一斉に重盾が重ね合わされ、鉄の壁が構築される。その隙間から、震える手で長槍が押し出された。後方では弓兵が弦を極限まで引き絞り、弓幹が軋む音を立てる。


「引きつけろ。まだ撃つな」

「距離、百……九十……!」


 測量兵の声が上ずる。


 黒い巨体は止まらない。疾走すらしていない。ただ、前へ足を運んでいるだけだ。それだけで巨木が倒れ、岩が粉砕され、村の土台が揺れていた。


「……六十、五十!」

「放てぇっ!」


 トーマスの号令とともに、数十本の矢が朝焼けの空を黒く染めた。狙いは右前脚の関節部。巨体を支える支柱を砕く、討伐の鉄則だ。


 鋼鉄の鏃が、寸分違わず黒い外殻へと殺到する。


 ――甲高い金属音が、戦場に虚しく響き渡った。


 貫くどころではない。矢は巨大な岩石に投げつけられたガラス細工のように、弾け、折れ、地面へ惨め散らばった。外殻には一筋の傷すら残っていない。


「ひっ……!?」

「怯むな! 槍兵、押し込めッ!」


 盾の隙間から長槍を構えた騎士たちが躍り出た。体重のすべてを乗せ、十数本の槍先が右前脚の隙間を穿つ。浅く、わずか数寸だけ食い込んだ。


「押せ! 押せぇぇぇっ!」


 血を吐くような叫びとともに、騎士たちが泥を蹴る。黒い巨体が、初めてわずかにその歩みを止めた。


「止まったぞ!」


 歓声が上がりかけた、その瞬間だった。


 黒い魔獣は、ただ静かに、前足をもう一歩踏み出した。


 それだけだった。


 肉骨を砕く鈍い音が響き、長槍が木屑となって爆ぜた。柄を握っていた騎士たちの腕の骨が逆方向に折れ曲がり、十数人の体が装甲ごと吹き飛ぶ。地面を転がり、血を吐き出しながら絶命していく。


「退け! 隊列を直せ!」


 トーマスは叫びながら、単身で前へ出た。


 剣を両手で握り直す。白い魔力が限界を超えて刀身に凝縮され、凄まじい風圧が地面の砂を跳ね上げさせる。魔力による衝撃を込めた渾身の一撃。腕の肉が裂け、血が溢れる感覚を無視して、トーマスは踏み込んだ。


「おおおおおっ!」


 重装甲とは思えぬ神速。潜り込んだ懐から、極限の圧力を秘めた横薙ぎが放たれる。


 刃が黒い外殻を叩いた瞬間、蓄積された衝撃が爆発した。


 ドッ、と大気が空砲を打ち鳴らしたような衝撃波が弾け、巨体がついに半歩スライドした。


「畳み掛けろ! 全軍、叩き込め!」


 トーマスの叫びに合わせ、生き残った騎士たちが死力を尽くして群がる。矢、魔法、長剣の嵐。土煙と爆炎が黒い巨体を覆い隠した。


 静寂が訪れる。誰もが息を呑み、煙の先を見つめた。


 だが――煙を押し分けて踏み出された黒い脚は、一瞬前となに一つ変わっていなかった。


 トーマスが命を削って刻んだ斬撃痕は、かすかな擦り傷程度に塞がり、表面の幾何学模様が嘲笑うように青黒く脈打っている。


 巨大な頭部が、ゆっくりと伏せられた。


 その丸い瞳には、怒りも、苛立ちも、殺意すら存在しなかった。足元で必死に足掻く人間という羽虫に対する、圧倒的で無機質な「無関心」。ただ、立ち塞がる障害物として踏み潰すためだけに、巨大な前足が持ち上がる。


「……そんな……」


 誰かが剣を落とした。


 避難列の後方で、シグは倒れた騎士を担ぎ上げていた。胸当ては大きく陥没し、口から泡を吹いている。


「俺は……まだ……」

「喋らないで! 傷口が開く!」


 シグは騎士を後方の救護兵へ押し付けると、溢れ出る汗を拭うこともせず、血が滲むほど固く剣の柄を握りしめた。


 視線の先で、トーマスたちが死線に立っている。自分には力がある。前線へ飛び込み、あの化け物の首を跳ね飛ばしたい衝動が全身の血を沸騰させる。だが、トーマスの「戦うのは俺たちだ」という言葉が、重い鎖となって足首を縛り付けていた。歯噛みした口内に、苦い血の味が広がる。


 その時、世界の音が消えた。


 黒い魔獣が足を止めていた。


 全身の青黒い紋様が、狂ったような周期で明滅を始める。空気が激しく振動し、周囲の小石や兵士の死体が、重力を失ったかのように浮き上がり始めた。


 魔獣の胸部を中心に、空間そのものが歪み、どす黒い光が凝縮されていく。


(――魔力を集めているんじゃない。空間そのものを食っている……!?)


 トーマスの戦慄が、全身の毛髪を逆立てた。


「総員っ!!」


 トーマスは喉が引き裂けるほどの声を張り上げた。顔の筋を血走らせ、絶望の深淵から叫ぶ。


「総員!! 散開しろぉぉぉぉぉッ!! 」


 その叫びが戦場へ響き渡った瞬間、黒い魔獣の全身を巡る青黒い紋様が、これまでで最も強い輝きを放った。

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