第二話:災厄の来訪/第三幕:迎撃戦
調査隊が村へ帰還した時には、すでに灰色の混迷がすべてを呑み込み始めていた。
東門へ向かって這うように伸びる避難の列。杖に縋る老人の肩を支える者、声も無く引き攣れた顔で子を抱きすくめる母親、泥に輪を奪われかけた荷車を死に物狂いで押す若者たち。その脆弱な群れの側面に、中隊の騎士たちが不揃いな鉄の壁となって立ち並んでいる。
混乱はある。だが、壊滅には至っていない。隊長トーマスの発する低く短い怒声が、辛うじて村という巨大な器官を機能させていた。
不意に、腹の底を震わせる地鳴りが届く。今度は誰一人として叫ばなかった。悲鳴すら、近付いてくる死の足音に押し潰されていた。ただ誰もが静まり返り、己の運命が歩み寄ってくる方向を見つめていた。
トーマスは北西の深林を見据えたまま、一度も振り返らずに命じる。
「王都へ早馬を立てろ。同時に、西方軍本隊へもだ」
「はっ……! しかし隊長、伝令の内容は……」
「『神災級』の出現。そう伝えろ」
若い騎士の息が止まった。神災。騎士団の古い教本、その破られた羊皮紙の端にしか記載されていない、国が一つ消える危険度だ。
「迷うな、走らせろ!」
「は、はいっ!」
二騎の馬が狂ったように馬車道を蹴り、東の街道へ消えていく。巻き上がった砂塵が朝靄に溶けていくのを確かめると、トーマスはすぐ脇に立つ少年に視線を落とした。
「シグ」
「……はい」
「列を止めるな。誰が倒れようと、避難を最優先にしろ。……戦うのは、俺たちの仕事だ」
簡潔な命令だった。その声に一切の揺らぎはない。シグは深く息を吐き出し、込み上げる焦燥を殺して頷いた。
「了解しました」
剣の柄へ手が伸びる。だが、引き抜くことは許されない。今、この鈍色の鉄を抜くべきではないことを、自分自身が一番理解していた。トーマスの鋭い視線がそれを制している。シグは唇を噛み締め、避難列の後方へと背を向けた。
北西の霧が、生き物のように大きく揺れた。
地鳴りの間隔が詰まる。やがて、樹齢数百年の大木が、まるで腐った藁のように砕け散った。
森を割って現れたのは、異質な漆黒だった。
太く、歪んだ四肢。一本、また一本。黒い外殻を覆う青黒い幾何学模様が、おぞましい鼓動に合わせて明滅している。前足が土を踏みつけるたび、衝撃波となって土煙が爆ぜた。続いて姿を現した巨大な胴体は、無数の棘を背に生やし、分厚い甲冑のような肩を揺らしている。額の中央、歪んだ紋章のごとき核から、音もなく黒い稲妻が走っていた。
誰ひとり、声を発することすらできない。それは魔獣などという生易しい存在ではなかった。
トーマスは静かに視線を走らせる。足取り、筋肉の弛緩、地面への沈み込み。戦場で鍛えた目が、答えを導き出す。
(――勝てない)
死の予感が背筋を凍らせる。だが、トーマスは喉の奥で息を呑み込み、静かに腰の剣を抜いた。銀色の刀身に右手の掌を沿わせる。
トーマスに宿る《衝撃の紋章》が、鈍く、重い光を放ち始めた。肉体から流し込まれた魔力が鉄を侵食し、刀身の周囲の空気が歪む。
「全軍、迎撃陣形」
静かな声だったが、それは通底する絶望を吹き飛ばす重みを持っていた。
「前衛、盾を組め!」
一斉に重盾が重ね合わされ、鉄の壁が構築される。その隙間から、震える手で長槍が押し出された。後方では弓兵が弦を極限まで引き絞り、弓幹が軋む音を立てる。
「引きつけろ。まだ撃つな」
「距離、百……九十……!」
測量兵の声が上ずる。
黒い巨体は止まらない。疾走すらしていない。ただ、前へ足を運んでいるだけだ。それだけで巨木が倒れ、岩が粉砕され、村の土台が揺れていた。
「……六十、五十!」
「放てぇっ!」
トーマスの号令とともに、数十本の矢が朝焼けの空を黒く染めた。狙いは右前脚の関節部。巨体を支える支柱を砕く、討伐の鉄則だ。
鋼鉄の鏃が、寸分違わず黒い外殻へと殺到する。
――甲高い金属音が、戦場に虚しく響き渡った。
貫くどころではない。矢は巨大な岩石に投げつけられたガラス細工のように、弾け、折れ、地面へ惨め散らばった。外殻には一筋の傷すら残っていない。
「ひっ……!?」
「怯むな! 槍兵、押し込めッ!」
盾の隙間から長槍を構えた騎士たちが躍り出た。体重のすべてを乗せ、十数本の槍先が右前脚の隙間を穿つ。浅く、わずか数寸だけ食い込んだ。
「押せ! 押せぇぇぇっ!」
血を吐くような叫びとともに、騎士たちが泥を蹴る。黒い巨体が、初めてわずかにその歩みを止めた。
「止まったぞ!」
歓声が上がりかけた、その瞬間だった。
黒い魔獣は、ただ静かに、前足をもう一歩踏み出した。
それだけだった。
肉骨を砕く鈍い音が響き、長槍が木屑となって爆ぜた。柄を握っていた騎士たちの腕の骨が逆方向に折れ曲がり、十数人の体が装甲ごと吹き飛ぶ。地面を転がり、血を吐き出しながら絶命していく。
「退け! 隊列を直せ!」
トーマスは叫びながら、単身で前へ出た。
剣を両手で握り直す。白い魔力が限界を超えて刀身に凝縮され、凄まじい風圧が地面の砂を跳ね上げさせる。魔力による衝撃を込めた渾身の一撃。腕の肉が裂け、血が溢れる感覚を無視して、トーマスは踏み込んだ。
「おおおおおっ!」
重装甲とは思えぬ神速。潜り込んだ懐から、極限の圧力を秘めた横薙ぎが放たれる。
刃が黒い外殻を叩いた瞬間、蓄積された衝撃が爆発した。
ドッ、と大気が空砲を打ち鳴らしたような衝撃波が弾け、巨体がついに半歩スライドした。
「畳み掛けろ! 全軍、叩き込め!」
トーマスの叫びに合わせ、生き残った騎士たちが死力を尽くして群がる。矢、魔法、長剣の嵐。土煙と爆炎が黒い巨体を覆い隠した。
静寂が訪れる。誰もが息を呑み、煙の先を見つめた。
だが――煙を押し分けて踏み出された黒い脚は、一瞬前となに一つ変わっていなかった。
トーマスが命を削って刻んだ斬撃痕は、かすかな擦り傷程度に塞がり、表面の幾何学模様が嘲笑うように青黒く脈打っている。
巨大な頭部が、ゆっくりと伏せられた。
その丸い瞳には、怒りも、苛立ちも、殺意すら存在しなかった。足元で必死に足掻く人間という羽虫に対する、圧倒的で無機質な「無関心」。ただ、立ち塞がる障害物として踏み潰すためだけに、巨大な前足が持ち上がる。
「……そんな……」
誰かが剣を落とした。
避難列の後方で、シグは倒れた騎士を担ぎ上げていた。胸当ては大きく陥没し、口から泡を吹いている。
「俺は……まだ……」
「喋らないで! 傷口が開く!」
シグは騎士を後方の救護兵へ押し付けると、溢れ出る汗を拭うこともせず、血が滲むほど固く剣の柄を握りしめた。
視線の先で、トーマスたちが死線に立っている。自分には力がある。前線へ飛び込み、あの化け物の首を跳ね飛ばしたい衝動が全身の血を沸騰させる。だが、トーマスの「戦うのは俺たちだ」という言葉が、重い鎖となって足首を縛り付けていた。歯噛みした口内に、苦い血の味が広がる。
その時、世界の音が消えた。
黒い魔獣が足を止めていた。
全身の青黒い紋様が、狂ったような周期で明滅を始める。空気が激しく振動し、周囲の小石や兵士の死体が、重力を失ったかのように浮き上がり始めた。
魔獣の胸部を中心に、空間そのものが歪み、どす黒い光が凝縮されていく。
(――魔力を集めているんじゃない。空間そのものを食っている……!?)
トーマスの戦慄が、全身の毛髪を逆立てた。
「総員っ!!」
トーマスは喉が引き裂けるほどの声を張り上げた。顔の筋を血走らせ、絶望の深淵から叫ぶ。
「総員!! 散開しろぉぉぉぉぉッ!! 」
その叫びが戦場へ響き渡った瞬間、黒い魔獣の全身を巡る青黒い紋様が、これまでで最も強い輝きを放った。




