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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第一章:「シグ・フリューゲン」

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第二話:災厄の来訪/第二幕:黒き災厄

2026/8/11 改稿(改行の調整)

 調査隊は暗い森の奥へ慎重に足を踏み入れていた。


 先頭はシグ。すぐ後ろにトーマスがつけ、さらに八名の騎士が列をなす。誰も口を開かない。森は不気味なほど音を失っていた。梢を揺らす風の音と、足元の葉擦れだけが耳に届く。鳥も、虫も、獣の気配すら微塵もない。


 足裏から這い上がる細かな振動。不規則に、地の底を直接擦るような揺れが続いていた。


「止まれ」


 トーマスが短く命じる。全員が動きを止めた。呼吸すら殺しているのに、張り詰めた緊張で肌が痛む。


 シグは視線を足元へ落とした。昨日までは存在しなかった深い溝。湿った黒土が削り取られ、下生えは根こそぎ押し潰されている。獣道を踏み荒した程度の痕跡ではない。森の表層そのものが力任せに削ぎ落とされていた。


 隊はさらに進む。木々の隙間から、突然一頭の鹿が飛び出してきた。後続が続く。二頭、三頭、十頭。群れだった。人間など視界に入っていない様子で、脇目も振らず駆け抜けていく。


「通せ」


 トーマスの指示で騎士たちが左右へ分かれた。鹿の群れは隊列の間を切り裂くように走り抜け、南東の闇へ消えていく。


 続いて右手の茂みが大きく揺れた。姿を現したのは狼だった。本来なら鹿を追うはずの痩せた雄狼。だが、獲物には目もくれない。目の前の人間たちも無視し、ただ必死に爪を立てて走り去る。


 さらに奥から、大きな牙を持つ大型の魔獣が姿を現した。昨日まで騎士団が討伐の対象にしていた種だ。黒い外皮は血と泥に塗れ、片方の耳が裂け、後脚を引きずっている。それでも騎士たちへ襲いかかりはしない。狂ったように木々の間を抜け、村とは反対の方向へ逃げていく。


 捕食する者も、される者も、区別なく逃げていた。


「何から逃げている……」


 シグの呟きに答える者はいない。再び、地の底から大きな揺れが突き上げた。今度は先ほどよりも近い。


「急ぐぞ」


 トーマスが歩調を速める。隊列がそれに続いた。


 林道の先で白い靄が急激に濃くなる。湿った空気を押し払うように進むと、その向こうで巨木が一本、静かに傾いた。乾いた破砕音が響き、大地が震える。誰も驚く余裕すらなかった。隣の木が倒れ、さらにその奥の巨木が根元からへし折れる。


 倒れる木々を見ていたのではない。木々の向こう側、森そのものが形を変えながら蠢いているように見えた。森の稜線が沈み、遅れて泥と土煙が吹き上がる。一定の周期で繰り返される破壊の跡は、まるで巨大な何かの歩幅そのものだった。


「……隊長」


 若い騎士の声が引きつる。


「あれは……」


 トーマスは答えなかった。いや、答える言葉を持っていなかった。


 靄の向こうに、圧倒的な黒がある。明確な輪郭はない。ただ木々の頭頂部より高い位置で、黒い塊がゆったりと動いている。それが一歩進むたび、森の稜線が確実に削り取られていった。


「距離を保て」


 トーマスが抑えた声で命じる。


「不用意に近づくな」


 言われるまでもなく、近づきたい者など一人もいなかった。シグは無意識に柄へ手を伸ばす。だが、抜けなかった。指に力が入らない。剣を抜いたところで、一体何をどう防げばいいのか。思考が凍りつき、身体が固まる。


 地鳴りが重くなる。靄が激しく揺れ、へし折れた倒木が弾け飛んだ。裂けた靄の隙間から、闇を固めたような外殻が一瞬だけ姿を現す。岩でも、木でもない。生き物だった。漆黒の表面には、青黒い幾何学模様が浮かび上がり、鼓動のように不規則に脈打っている。


 誰も動けなかった。眼前の存在を、脳が理解することを拒んでいた。黒い外殻は、再び木々の陰へ沈んでいく。その姿が見えなくなった瞬間だった。


「撤退だ!」


 トーマスの怒号が飛ぶ。


「村へ戻る!」


 異論を挟む者は誰もいない。全員が一斉に踵を返した。


 走る。だが、恐怖で隊列を崩すことはしない。最後尾を固める者、左右を警戒する者、各自が役目を維持したまま林道を駆け下りる。背後から大地を揺らす重音が追いかけてくる。追ってきているのか、それともただ前進しているだけなのか。


 確かめるために振り向く者はいなかった。視線を後ろへ向けた瞬間、足が止まるという確信があったからだ。


 林道を抜け出ると、視界が開けた。村が見える。避難はまだ続いていた。荷車に老人が押し込められ、子どもたちが母親の手を引かれて走る。


 間に合う。


 シグがそう思いかけた、まさにその時だった。


「隊長!」


 見張りの騎士が叫んだ。


「森が!」


 全員が振り返る。北西の靄が大きく揺れ動いた。森の向こう側が、斜面ごと押し上げられるように歪み、巨木が何本も音を立てて倒れていく。だが、木々の倒壊など誰も見ていなかった。森そのものが、村へ向かって進み出したと誰もが思った。


「全軍!」


 トーマスの割れんばかりの声が響く。


「迎撃配置!」


 矢継ぎ早に命令が飛ぶ。


「第一小隊、北西正面! 第二小隊は東側避難の護衛へ回れ! 弓兵は屋根の上だ!」


「ただし撃つな!」


「対象を完全に確認するまで待機!」


 騎士たちが散っていく。村全体が緊迫した一つの固まりとなって動き始める。シグは避難列へ飛び込んだ。


「急いでください!」


「東の街道へ!」


「慌てないで!」


 伸びきった列の中で、子どもが泣き叫び、足を痛めた老人が倒れ込み、ぬかるみに荷車の車輪が落ち込む。シグは濡れた泥に膝をつき、荷車を押し上げた。倒れた老人を抱き起こし、泣く子どもの手を取って親へ引き渡す。剣を抜く暇などない。それでよかった。


 その時、これまでで最も腹に響く地鳴りが村を打った。家屋が大きく軋み、窓硝子が派手に弾け散る。村人たちの悲鳴が合唱となった。


 森の境界線、靄が左右へ引き裂かれる。その闇の裂け目から、圧倒的な黒が溢れ出した。最初に見えたのは、太い脚だった。続いて、城壁のように重厚な四肢。表面を覆う黒い外殻の隙間から、青黒い光が狂った周期で明滅している。背からは無数の太い棘が空を刺すように突き出していた。


 それでも、全体像は捉えきれない。森が邪魔をして視界に収まり切らなかった。


「……何だ、ありゃあ」


 誰かの掠れた呟きに、答える者はいなかった。少なくとも、誰も知る魔獣ではなかった。


 沈黙の中、頭部の位置で二つの光が灯る。底冷えするほど冷たく青い光が、感情を持たぬまま村を見下ろしていた。踏み潰す害虫を見定めるような、無機質な視線。


 シグは全身の血が凍りつくのを感じた。目が合った。はるか頭上から、確実に自分たちを見下ろしている。


「……全軍」


 トーマスが静かに剣を抜いた。抜かれた刃が朝日に冷たく光り、巨大な影へ向けられる。


「迎撃準備!」


 勝てる者はいない。それでも騎士たちは剣を握り直した。槍の柄を締め、盾を構え直す。シグも泥のついた手で柄を握り締めた。


 昨夜のヨハンとの約束が脳裏を過る。


(――必ず戻る)


 それだけを胸の奥で強く噛み締めた。


 黒い巨影は、ゆっくりと前脚を持ち上げ、また振り落とす。


 世界が揺れた。


 壊滅のその一歩が、シイバへ踏み込まれた。

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