第二話:災厄の来訪/第一幕:異変
2026/8/10 改稿(改行の調整)
夜明け前のシイバ。
空は群青から淡い藍色へ移り始め、山々の稜線だけが薄く白み始めていた。村はまだ眠りの中にある。煙突から立ち上る煙もなく、家々の窓は閉ざされたまま、昨日と何一つ変わらぬ朝に見えた。
だが、森だけは違った。あまりにも静かだった。
風は吹き、木々も揺れている。それなのに、葉擦れの音しか聞こえない。鳥はいない。獣もいない。虫の羽音さえ存在しない。まるで森そのものが息を止めているようだった。
――その瞬間。
耳底を直接引き裂くような揺らぎが、空間を薙ぎ払った。
音ではなかった。世界そのものが悲鳴を上げた。空気が押し潰される。大地が唸り、山が震える。窓硝子という窓硝子が一斉に軋み、屋根に積もった露が弾け飛んだ。
村中の犬が狂ったように吠え始める。家畜小屋では馬が竿立ちになり、牛が鎖を引き千切ろうと暴れ回った。
朝焼けの空へ無数の鳥が飛び立つ。黒い群れが山を覆い、空を埋め尽くす。一つの森から飛び立つ数ではない。山そのものが翼を持ったかのようだった。
遅れて、森の下生えが大きく揺れた。鹿の群れが木々の間から飛び出す。
兎。
狼。
猪。
さらに、その背後から人里を避けるはずの小型の魔獣までもが姿を現した。本来ならば同じ道を走ることなどあり得ない獣たちが、互いを顧みることもなく山を下ってくる。人間の姿を見ても襲わない。ただ一つの恐ろしさに背を押され、シイバの両脇を抜けて、さらに遠くへ逃げ続けていた。
「何だ……今のは……」
家から飛び出してきた老人が呆然と空を見上げる。
誰も答えられない。誰もが同じ方向を見る。
同じ頃、村外れのフリューゲン家では、シグは目を開くより早く身体を起こしていた。昨夜、窓から見た森、夜の静寂、胸に残った違和感、それらが一瞬で繋がる。寝台から飛び降り、剣帯と外套を掴んだ。
隣室から物音が聞こえる。扉を開けると、アルベルトも既に起きていた。
「今のは何だ」
「分からない。騎士団と合流する」
シグは剣帯を締めながら答えた。
「アンナとヨハンを頼む」
「分かった。気を付けろ」
シグは家を飛び出した。
村の中央広場。トーマス中隊の臨時野営地では、既に騎士たちが天幕から飛び出していた。
「聞いたか!」
「森の方だ!」
「馬を押さえろ!」
胸当てを抱えた騎士たちが、各々の持ち場へ駆けていく。まだ誰一人として状況を理解していない。それでも異常事態だということだけは、全員が理解していた。
本隊天幕の幕が勢いよく開く。既に鎧を纏ったトーマスが姿を現した。
「総員、装備!」
一声だった。それだけで野営地全体が動き始める。誰一人迷わない。
ベルトを締める。剣帯を巻き終えた騎士が槍を掴む。馬が引き出される。長年叩き込まれた軍隊の規律が、恐怖よりも早く騎士たちの身体を動かしていた。
シグも留め具を締めながら、トーマスの前へ駆け出す。冷たい朝の空気が肺へ流れ込む。鼻の奥が痛むほどの冷気すら、今は意識から消えていた。
足裏から這い上がる、微かな振動。規則正しい歩調ではない。地底の奥深くで何かがのたうち、地の底を削りながら進んでいるかのような揺れだった。
「シグ!」
「はい!」
「村人の避難を開始する! 老人、子どもを最優先だ!」
「了解!」
「まだ敵は確認できていない! 無用な混乱だけは防げ!」
「了解!」
命令を受けると同時に駆け出す。剣を抜くためではない。人を守るためだった。
村の広場で警鐘が鳴り響く。警鐘の綱が力任せに引かれていた。一打、二打、三打。平時には決して鳴らされない緊急招集の鐘。
眠っていた村が即座に目を覚ます。村人たちが不安げな顔で外へ出てきた。
「何があった!」
「魔獣か!」
「落ち着いてください!」
シグが広場へ駆け込み、声を張り上げる。
「広場へ集まってください! 慌てず、子どもと老人を優先してください!」
聞き馴染みのあるシグの声に、怒号は少しずつ収まり、人の流れが東へ向き始めた。
かつて騎士団で雑用係から始めた少年は、今や準騎士として村人たちの前へ立っていた。
その時、足元を激しい揺れが襲う。今度は誰も聞き間違えなかった。地鳴りだった。
村人たちが一斉に北西を向く。森の境界線、巨木が一本、ゆっくりと傾いた。
倒れる。
乾いた破砕音に続いて二本、三本、四本と次々に倒れた。まるで見えない巨大な腕が森を薙ぎ払っているかのように、木々が倒れていく。
誰かが悲鳴を上げた。誰かが子どもの目を塞ぐ。
シグは目を逸らさなかった。森の奥、倒れゆく木々の向こうに、何があるのかは見えなかった。白い靄はなお深く、木々の崩れる音だけが、少しずつ村へ近づいてくる。
姿はない。それでも、何かがいる。靄の奥から迫る崩壊の音に、人々の怯えが確固たる形を結び始めていた。
トーマスは広場へ戻るなり、北西の森と村の配置を交互に見た。表情に狼狽はない。だが、普段は穏やかな茶色の瞳から、柔らかさが完全に消えていた。
「第一小隊は北西街道を封鎖。村人を一人も森へ近づけるな! 第二小隊は村の東側へ回り、避難路を確保しろ。騎乗できる者は伝令に備えろ!」
矢継ぎ早に命令が下される。
「弓兵は広場北側の家屋へ上がれ。まだ射るな。対象を確認するまで、矢を番えるな」
未知の相手へ不用意に攻撃すれば、こちらから敵意を示すことになる。まして、森から逃げてきた動物や獣が、村の周囲を無秩序に駆け抜けている。混乱の中で矢を放てば、村人や味方へ当たる危険さえあった。
状況は見えない。だからこそ、トーマスは見えているものだけを使って布陣を組み立てていた。
「村人は東側へ集めろ。荷物は持たせるな。歩けない者だけ荷車へ乗せる」
「隊長、村内待機ではなく避難させるのですか」
騎士の一人が尋ねた。
「家屋は壁にはならん」
トーマスは即答した。
「相手の正体も規模も不明だ。 閉じ込められれば、家は棺になる」
「了解!」
騎士が駆け出す。村人たちの動揺は、逃げ場のない恐怖へ変わり始めていた。
何が起きているのか分からない。どこへ逃げればよいのかも分からない。分からないものへ背を向けて歩くことは、見えている敵へ立ち向かうより難しい。
「列を崩さないでください!」
シグは広場を駆けながら声を張った。
「東側の街道へ向かってください! 走らず、前の人を押さないで!」
老人の腕を取り、歩調を合わせる。泣き出した子どもを母親のもとへ連れ戻す。路上へ落ちた荷を拾おうとした男の肩を掴み、前へ進ませる。
「食料を置いていけと言うのか!」
「命があれば、取りに戻れます!」
「だが――」
「今は歩いてください!」
強く言い切った。村人が息を呑む。シグが故郷の者へ声を荒らげることは滅多にない。
それでも今は、嫌われることを恐れている場合ではなかった。生きてもらわなければならない。そのためならば、憎まれることくらい何でもなかった。
「シグ!」
聞き慣れた声に振り向く。人の流れに逆らうように、アルベルトがこちらへ歩いてきていた。その後ろにはアンナとヨハンがいる。
「どうなっている」
「分からない」
シグは正直に答えた。
「森から何かが近づいている。三人とも、東側へ避難してくれ」
「お前は?」
「騎士団に残る」
アンナの顔が曇った。ヨハンは何も言わず、シグの腰にある剣を見つめている。昨夜、木剣を構えていた少年の瞳に、今は憧れよりも不安が勝っている。
「……戻ってくるよな」
「ああ」
シグは迷わず答えた。約束する、とは言わなかった。昨夜交わした約束が、胸の奥でまだ温かさを残していたからだ。
「必ず戻る」
その言葉に、ヨハンは僅かに頷いた。
アルベルトはシグを見つめた。何かを言おうとして、やめる。代わりに、短く告げた。
「自分のことも必ず守れ」
「分かっている」
「本当に分かっているならいい」
信じていない声音だった。だが、それ以上は何も言わなかった。アルベルトはアンナとヨハンを促し、人の列へ加わった。
去っていく三人の背を、シグは一瞬だけ見送る。帰る場所が遠ざかっていく。そのように見えた。
「シグ!」
トーマスの声が彼を現実へ引き戻した。
「案内役として出ろ。北西の林道までだ」
「調査に向かうのですか」
「姿も進路も確認できていない。このまま村で待てば、避難方向すら誤る」
もっともだった。何かが北西から近づいているとしても、東へ抜けるとは限らない。森を迂回し、避難列の先へ回り込む可能性もある。
「十名で確認する。交戦はしない」
トーマスは周囲の騎士へ視線を走らせた。
「敵を見つけても、距離を保て。痕跡を得た時点で撤退する。命令なく武器を使うな」
選ばれた騎士たちが応じる。無謀な偵察ではない。村を守るために必要な、最小限の賭けだった。
「シグ! 前へ出すぎるなよ」
「了解しました」
調査隊は北西の林道へ向かった。
調査隊の姿が森へ呑み込まれた、その直後。
遠い山の彼方から、地を覆うような咆哮がシイバを打ち揺らした。




