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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第三章:「冒険者への第一歩」

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幕間:神意の境界

 セレスティア聖王国。その王都に置かれた天啓庁で、神託板に文字が現れたのは、朝の祈祷が終わる直前だった。


 白亜の壁に囲まれた受託室で、神官たちが一斉に息を呑む。祭壇の奥、銀の枠に収められた石板へ淡い光が走り、何もなかった表面に神語が刻まれていく。


 神託記録官エドガー・レムニスは書記官の筆先を目で追いながら、光の消えるまでの間、ひとつも見落とさぬよう神語の形を頭に刻みつけた。


 やがて光が収まり、受託室に静寂が戻る。


 解読された文言は、短かった。


「北へ至る道を閉ざすな。されど、その境を乱れに委ねるな」


 誰もすぐには口を開かなかった。


 エドガーは机上の記録紙へ視線を落とす。書き写された二つの文。その間に、答えはない。


 北へ至る道。


 最初に頭へ浮かんだのは、ファルム回廊だった。


 セレスティア聖王国北東部に広がり、北はリューン王国やエルバ自由都市同盟方面へ、東はカル=ザ=グラとの国境地帯へ通じる陸上交通圏。一本の街道ではなく、山間部の峠道、主要交易路、宿場、関所、周辺集落までを含む広がりを持つ。平時にはこの国の北方交易の大半がここを通り、有事には数個師団を移動させられるだけの道幅と兵站拠点がある。回廊東部では国境線の一部が歴史的に画定されておらず、聖王国とカル=ザ=グラの双方が、同じ峠道について異なる地図を持っていた。


 つまり、神々の思想を抜きにしても、両国が争うだけの理由はすでに揃っている。


 解読会議が開かれる前に、エドガーは記録庫へ降りた。過去五十年分の神託記録、地理資料、外交文書。必要と思われるものを卓へ積み上げるだけで、書記官ふたりがかりで半刻を要した。


 会議が始まると、最初に声を上げたのは保守派の神官だった。


「閉ざすな、という御言葉は明白でしょう」


 エドガーが積んだ資料の一枚を指先で押さえながら、彼は言う。


「回廊の通行を妨げてはならない。ならば、我らが道を守り、秩序ある往来を維持すべきです」


 向かい側で、穏健派の神官が指先を組み直した。


「『我らが』とは仰せになっていません」


 低く、しかし迷いのない声だった。


「道を閉ざさないことと、聖王国が管理することは別でしょう。軍を動かして緊張を高めれば、往来そのものが絶えます。それこそ『道を閉ざす』ことになりはしませんか」


「では、『乱れに委ねるな』をどう読む」


 問い返されても、答えはすぐには出なかった。


 エドガーは神託板を見た。光はすでに失われ、石板は古い石と変わらない。


 神の言葉そのものは、わずか二文しかない。


 そこへ誰の名を足すかで、意味はいくらでも変わる。


「過去の神託との照合を、すでに進めています」


 学究派の神官が、エドガーの積んだ資料へ手を伸ばした。


「『境』という語が領土を示すのか、秩序そのものを指すのか。それを確認せずに結論を急ぐべきではありません。エドガー殿、五十年前の類例は」


「該当する記録は三件。うち二件は『境』を国境の意で、一件は信徒共同体の内部秩序の意で用いています」


 エドガーは淡々と答えた。数字だけを口にする。それ以上のことは、まだ言えない。


 保守派の神官が何か言いかけたところで、扉が二度叩かれた。


 入室した役人は、折り畳まれた書状を差し出した。封には街道監視所の印がある。


 エドガーは受け取り、紙を開いた。


 回廊東部で、カル=ザ=グラの兵が確認された。


 侵攻ではない。少なくとも報告書にはそう書かれている。だが、従来より北へ進出した位置に兵が置かれ、周辺の商隊へ道の状況を聞き取っているという。


 室内の空気が変わった。


「やはり、先んじて動くべきです」


 先ほどの神官が椅子から身を乗り出す。


「ヴォルクスの民が回廊を押さえてからでは遅い」


「神託とカル=ザ=グラの動きを結びつける根拠はありません」


 学究派が即座に返した。


「ヴォルクスから新たな神託が下ったという報告はどこにもない」


「必要か? あの国が何を尊ぶかなど、神託を待つまでもない」


 その言葉に、エドガーは書状を持つ手を止めた。


 確かにヴォルクスは、力によって未来を切り拓くことを尊ぶと伝えられている。だが、それを命じたという記録はどこにもない。カル=ザ=グラの人間が「ヴォルクスならばこうするはずだ」と判断しているだけかもしれない。


 神が動いたとは限らない。人が、神の名を借りて動いているだけかもしれない。


「もう一通あります」


 役人が差し出した紙には、別の封印が押されていた。


 今度はゼルヴェナ帝国からの情報だった。


 帝国側でも、ファルム回廊周辺の情勢を調べる動きが出ている。部隊の派遣は確認されていない。ただ、周辺の交通量やカル=ザ=グラ側の動向について、こちらの想定より早い段階から情報を集めていたらしい。


「オルド=グレアスの帝国まで動くか」


 誰かが呟いた。


 エドガーは二通の書状を並べた。


 片方には兵の移動。もう片方には情報収集。


 そして、その間にセラフィアの神託がある。


 三つを同じ卓上へ置けば、最初から一つの出来事だったように見えてしまう。


「神託の原文と解読記録を複製してください」


 エドガーが言うと、書記官が顔を上げた。


「過去記録との照合も続けます。聖王への奏上には、解釈が分かれていることも記載を」


 保守派の神官が眉を寄せる。


「結論を出さぬまま奏上するのですか」


「神託は記録します。解釈も記録します」


 エドガーは二通の報告書を重ねなかった。


「同じものではありません」


 会議が散会したあと、エドガーは資料を記録庫へ戻す作業に立ち会った。棚の奥、五十年前の類例を収めた箱の下に、別の冊子が一冊紛れていた。表紙に題はなく、几帳面な筆跡で日付だけが並んでいる。前任の記録官が個人で残していたものらしい。


 めくると、過去に下された神託の日付と、その後に周辺国家で発生した紛争の時期とが、年代順に並べて書き出されていた。最後の一行に、短い注記がある。


 ——神託と国家間紛争との関連について、さらなる比較検証を要する。


 書き手の名は記されていない。いつ、なぜこの比較が始められたのかも分からない。出所も、比較の方法も検証されていない。会議へ持ち出すには早すぎる。


 エドガーは冊子を元の箱へ戻し、棚の位置だけを記録紙の片隅に控えた。


 受託室へ戻ると、書記官たちはまだ記録の整理を続けていた。


 紙を擦る乾いた音が、室内に残っている。


 エドガーは最後にもう一度、神託板へ目を向けた。


 北へ至る道を閉ざすな。されど、その境を乱れに委ねるな。


 誰に道を開けと言ったのか。


 誰に境を守れと言ったのか。


 石板は、もう何も答えなかった。答えているのは、いつも人間の側だった。

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