第三話:生きて帰る/第四幕:倒さないという選択
ブルータルウルサスが肩を上下させるたび、脇腹の傷から血が滴る。後肢も沈み込み、先ほどまでの勢いはない。それでも黒い爪は地面を掴み、こちらを睨むように頭を低くしていた。
シグは剣を構えたまま、その向こうにある荷箱を見た。
持ち帰るものは、もうある。
周囲の状況も分かった。
この魔獣まで倒す必要はない。
「……戻ろう」
エイリクが横目を向ける。
「決めたか」
「ああ。こいつがここにいることは、ギルドに報告した方がいい。でも、俺たちが今ここで倒す必要はない」
魔獣が前肢を一歩出した。シグは目を逸らさない。
「まだ動ける。仕留めようとしたら、また近づかなきゃならない」
エルセリアが剣を構えたまま荷箱の方向を見た。
「分かったわ」
それだけだった。
エイリクも斧を肩へ戻さない。
「なら箱を取れ。こいつは俺たちで見る」
シグは頷き、後ろへ下がった。
魔獣が追おうとする。
赤黒い光が脚へ走ったが、踏み込みは鈍い。傷ついた後肢がわずかに沈む。
エイリクが前へ出た。
黒鋼の大斧を低く振る。
ブルータルウルサスが反射的に前肢を引いた。その隙にシグは背を向け、荷箱まで走る。
持ち上げた瞬間、その重みで腕に痛みが走った。
それでも抱え直す。
背後で咆哮が響いた。
振り返ると、エイリクの横を抜けようとしていた。
エルセリアが動く。
銀色の刀身を青白い雷が覆った。
一閃。
前肢を浅く斬っただけに見えたが、接触した瞬間に雷が弾け、巨体の脚が止まる。
ほんの一瞬。
その間にエイリクが横へ回り、《ルーン・ブレイカー》を地面すれすれに振った。
斧は当てない。
前へ踏み込ませないための一撃だった。
「行け!」
シグは荷箱を抱えたまま走った。
エルセリアが続く。
最後にエイリクが距離を取り、三人は斜面を下る。
すぐには背を向け切らなかった。
木々の間を抜け、岩を回り込み、直線で追われない位置を選ぶ。
腕が痺れる。
呼吸も苦しい。
それでも荷箱を下ろさなかった。
しばらく進んだところで、エイリクが足を止めた。
左手の甲が淡く光る。
シグも立ち止まる。
「来てるか?」
返事まで数秒かかった。
「……いや」
エイリクは林の奥へ顔を向けた。
「まだあそこだ。追ってきてない」
エルセリアも後方を確認している。
「もう少し離れましょう」
三人は再び歩き出した。
一度だけ遠くで獣の吼え声が聞こえた。
その後は何も来なかった。
◇
街道へ戻った頃には、陽はかなり西へ傾いていた。
シグは荷箱を地面へ下ろし、その場に腰を落とした。指を開くと、手のひらに赤い跡が残っている。
エイリクも道端へ座り、大斧を横へ置いた。
「生きてるな」
「見れば分かるだろ」
「確認だ」
シグは息を整えて笑った。
勝つことより、生きて帰ることの方が難しい。
あの言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
シグは荷箱へ手をかけた。
「行こう。まだ終わってない」
エイリクが立ち上がる。
「分かってきたじゃないか」
「何が?」
「仕事ってやつがだ」
シグは答えず、荷箱を持ち上げた。
◇
バルサへ戻った時には、空が橙色に染まり始めていた。
ギルド本部で荷箱を返し、遭遇した魔獣の痕跡とブルータルウルサスの出没を伝える。職員は記録用の紙へ筆を走らせながら、険しい顔を上げた。
「兵災級が、あの場所まで?」
「ええ。間違いなく」
エルセリアが答える。
依頼は完了として処理された。
シグは受け取った報酬を見てから、金額より先に冒険者証へ目を落とした。
冒険者になって初めての仕事が、これで終わった。
ギルドを出たあと、シグはエルセリアの腰の剣へ目を向けた。
「さっきの剣」
エルセリアが視線を返す。
「雷が出てたやつ。あれも紋章魔具なのか?」
「ええ」
彼女は柄へ軽く触れた。
「《雷纏の剣》。魔力を流すと、刀身に雷を纏わせられるの」
「兵災級でも止められるくらい強い剣なのか?」
「止めたのは剣じゃないわ」
シグは黙った。
大木へ突っ込んだブルータルウルサスを思い出す。
雷が走ったのは一瞬だった。
巨体そのものを押し返したわけでもない。
「……足をずらしただけか」
エルセリアが小さく頷いた。
「それで十分な時もあるわ」
シグは自分の腰へ手をやった。
リューン王国の制式剣。
今日、この剣は通用した。
自分の斬撃もブルータルウルサスを傷つけた。位置を選び、相手を誘導することもできた。
だが、あの衝撃で三人が引き離された時。
エルセリアへ向かう巨体が見えていて、何をすればいいかも分かった。
それでも、自分の剣は届かなかった。
シグは柄から手を離した。
次に出る時までに、考えておきたいことがある。
剣の届かない場所へ、どうやって手を伸ばすのか。




