第三話:生きて帰る/第三幕:兇獣の突進
巨大な魔獣が地を蹴った。赤黒い筋を浮かべ、一気に距離を詰めてくる。
シグは横へ跳んだ。
黒爪が目の前を薙ぎ、避けた先まで土が弾ける。
着地と同時に振り返ると、エイリクも斧を構え直していた。
先ほどまでとは違う。
爪の軌道を外して懐へ入っていたエイリクが、今度は大きく間合いを切った。
「速くなってるぞ!」
言われなくても分かっている。シグは剣を握り直した。
近づけば斬れる。だが、あの前肢を一度でもまともに受ければ、その次はない。
魔獣は再度低く身を沈めた。
また来る。
そう思った瞬間、巨体が前ではなく上へ動いた。
両前肢が持ち上がる。
「離れろ!」
エイリクの声と同時に、二本の前肢が地面へ叩きつけられ、足元が跳ねた。
衝撃が靴底から膝へ突き抜ける。シグは踏ん張れず、身体ごと斜面へ投げ出された。肩から地面へ落ち、息が詰まる。だが、剣だけは放さなかった。
土煙の向こうでエイリクが片膝をつき、反対側ではエルセリアが数歩よろめきながら体勢を立て直している。
三人の間が開いた。
ブルータルウルサスが頭を振る。
その先にいるのはエルセリアだった。
さらに後ろには、置いてきた荷箱と帰路へ続く斜面がある。
「エルセリア!」
シグは立ち上がって走った。
間に合わない。
魔獣の脚へ赤黒い光が走る。そのまま一気に加速した。
剣を握っている。
どこを斬ればいいかも分かる。
それなのに遠い。
右腕が一瞬だけ強張った。
黒い紋章のある場所。
シグは歯を食いしばり、その腕で剣を握ったまま走る。呼び出し方も、止め方も分からない力に手を伸ばすわけにはいかなかった。
「エルセリア!」
彼女は逃げなかった。
黒い柄を握る手に力が入る。
次の瞬間、エルセリアが剣へ魔力を流し込むと、銀色の刀身に青白い光が走った。
雷が絡みつき、刃を覆う。
ブルータルウルサスがすぐそこに迫っているが、エルセリアは直前まで動かなかった。
黒爪が振り上がった瞬間、そこで初めて踏み込んだ。
爪の下を抜け、銀の軌跡がブルータルウルサスの前肢を斬る。
雷が弾けた。
流し込まれた電流が、赤黒く脈打つ筋肉を一瞬だけ強制的に収縮させる。麻痺させて止めるには至らない。だが、突進の最中に起きた微小な筋の硬直が、足並みを狂わせた。
エルセリアはすでに次の位置へ動いていた。刃を前肢へ触れさせたまま、青白い光がひときわ強くなる。
乾いた破裂音と同時に、 巨大な肩が跳ね上がった。
前脚の着く位置が外れる。
巨体は勢いを殺せないまま斜めへ流れ、荷箱の手前を逸れて大木へ肩から激突した。幹が大きく揺れ、葉が降り注ぐ。
シグは足を止めた。
雷だけで吹き飛ばしたわけではない。自分から突っ込んできた勢いを利用したのだ。
エルセリアが剣を払う。刀身にはまだ細い雷が走っていた。
「シグ!」
呼ばれて我に返る。
ブルータルウルサスが木から身体を離した。
まだ動く。
シグは周囲を見た。
正面から突進できる場所が広すぎる。自分たちの後ろには斜面。左には大木が並び、右には地面から半ば露出した岩がある。
「エイリク! あいつ、曲がるのは遅い!」
「分かってる!」
「なら、俺が引きつける!」
返事を待たず、シグは走った。
「シグ!」
エルセリアの声を背に、岩と大木の間へ入る。
魔獣がこちらを向いた。
シグは剣を見せるように構え、後肢へつけた傷の側へ回る。追って向きを変える動きは、やはり遅い。
「こっちだ!」
吼え声とともに突っ込んでくる。
シグはぎりぎりまで引きつけた。
怖くないわけではない。右腕に力が入りすぎている。
それでも足は動いた。
大木の脇へ逃れる。一度加速した巨体は急には曲がれず、前肢で地面を削りながら向きを変えようとした。
そこへエルセリアが入り、剣を振るう。
雷を纏った刃が脇腹を走る。
筋肉が強張り、動きが鈍った。
「今だ!」
シグは後ろへ回った。
すでに傷ついている後肢へ、両手で剣を叩き込む。
肉を断つ感触。
ブルータルウルサスの脚が沈んだ。
その向こうにエイリクがいた。《狩猟王の刻印》が光る。一歩で巨体の死角へ潜り込む。
振り上げられた《ルーン・ブレイカー》が、先ほどエルセリアの斬った脇腹へ叩き込まれた。
血が飛んだ。巨大な身体が横倒しになり、地面を滑る。
「離れろ!」
エイリクの声で三人が散った。
すぐには起き上がらない。
荒い呼吸だけが聞こえる。
やがて前肢が土を掴んだ。
ゆっくりと身体を起こそうとしている。
後肢から流れた血が地面を濡らし、脇腹にも深い傷が開いている。赤黒い光はまだ皮膚の下を走っていたが、先ほどのような勢いはない。肩が大きく上下し、口元から唾液が糸を引いて落ちる。
それでも、逃げなかった。
低い唸り声が続く。
シグは剣を構えたまま呼吸を整えた。
エイリクも立っている。
エルセリアの刀身には、まだ雷が残っている。
ブルータルウルサスは傷だらけだ。
――戦えば、倒せるかもしれない。
だからこそ、次に決めなければならないことは、勝てるかどうかではなかった。




