第三話:生きて帰る/第二幕:森の主
林の奥で、太い幹が大きく揺れた。次いで、若木が一本、横へ倒れる。
その向こうから現れた巨体を見て、シグは息を止めた。
熊に似ていた。だが、知っている熊とは大きさも形も違う。四つ足のままでも頭の位置はシグより高く、黒褐色の毛に覆われた前半身だけが異様なほど発達している。肩から伸びる前肢は丸太のように太く、その先から湾曲した黒い爪が覗いていた。
一本だけでも、短剣ほどある。
ブルータルウルサスは地面へ鼻先を寄せた。低い唸り声が腹の底へ響く。
「荷箱から離れろ」
エイリクの声に、シグは剣を抜いて横へ動いた。同時に、エルセリアも剣を抜いた。ブルータルウルサスには向けず、林の続きへ視線を走らせる。
三人と荷箱の間に距離ができる。ここで倒す必要はない。追ってこられなくなればいい。そう考えた直後、巨体が地面を蹴った。
見た目から想像していたよりも遥かに速い。
シグは反射的に横へ跳んだ。黒い前肢が通り過ぎ、直後に轟音が鳴る。巨大な爪が地面を抉り、土と石が弾け飛んだ。破片が頬を掠め、シグは腕で顔を庇いながら着地する。
受けていたらどうなっていたか。考えるより先に、身体が動いた。
魔獣が前脚を引く。頭がこちらへ回るより先に、シグは側面へ走った。正面は駄目だ。前半身が大きすぎる。そのぶん、身体を回す動きは速くない。
右後肢の外側へ踏み込み、剣を振るう。
刃が毛を裂き、その下の肉へ入った。手応えがあった。鮮血が散る。
「入った――」
だが、止まらない。後肢が跳ね上がる。シグは咄嗟に身を引いたが、太い後肢が腹の前を掠めた。風圧だけで服が強く引かれる。距離を取る。傷は浅くない。それでも巨体は平然と向きを変え、シグを追ってくる。
剣は通る。
通るのに、足りない。
黒い前肢が振り上げられた。今度は避ける方向が狭い。左には木、右には斜面がある。シグが踏み出そうとした瞬間、横から黒い影が割り込んだ。
「下がれ」
エイリクだった。両手には黒鋼の大斧、《ルーン・ブレイカー》が握られている。
巨大な爪が振り下ろされる。シグなら距離を取る。エイリクは違った。身体を半歩ずらし、斧身を斜めに差し込む。爪と黒鋼が激突した。甲高い音とともに火花が散る。
受け止めたのではない。振り下ろされた腕がわずかに外へ流れる。その瞬間には、エイリクは懐へ入っていた。左手の甲にある《狩猟王の刻印》が光る。
動きが変わった。踏み込みは短いのに、速い。ブルータルウルサスが肩を振るより先に、エイリクは前肢の外側へ抜けていた。
「シグ、右だ!」
考えるより先に走る。シグは右側から回り込み、剣先を魔獣の脇腹へ向けた。斬る。今度は深く狙わない。注意をこちらへ向ければいい。刃先が皮膚を裂いた。
咆哮が響く。頭がシグへ向く。その一瞬だった。
エイリクが消えたように見えた。次に姿を捉えた時には、すでに反対側へ回っている。地面を蹴る動きに無駄がない。巨体がシグへ向きを変えたことで生まれた死角へ、そのまま滑り込んでいた。
《ルーン・ブレイカー》が低く構えられる。エイリクの腰が沈んだ。次の瞬間、黒鋼の斧が振り抜かれた。
鈍い衝撃音が響く。刃が後肢の付け根へ深く食い込んだ。巨体が傾く。初めて、明確に。片脚が地面を滑り、肩が近くの木へ激突した。幹が軋み、枝葉が一斉に落ちてくる。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。自分の剣とは違う。刃物の違いだけではない。どこへ入れば効くのか。どう動けば、その場所へ届くのか。エイリクは最初から分かっていたように見えた。
「見るのは後だ!」
怒鳴られ、シグは剣を構え直した。
ブルータルウルサスが再び低く唸った。後肢から血が流れている。
「これなら――」
離れられる。
直後、咆哮が空気を震わせた。傷ついた後肢を地面へつき、ゆっくりと身体を起こす。あれだけ深く斬られているのに、まだ動く。荒い呼吸が白く漏れた。
黒褐色の毛が逆立つ。皮膚の下に、赤黒い筋が浮かび始めた。血管のように肩から前肢へ走り、膨れ上がった筋肉の隙間を脈打っている。
「まずい」
エイリクが斧を構え直した。
シグは魔獣から目を離さない。何かが変わった。あれほど巨大な身体が、急に軽くなったように見えた。
前半身が低く沈む。
「来るぞ!」
次の瞬間。
ブルータルウルサスは、先ほどまでとは別物の速度で地面を蹴った。




