第三話:生きて帰る/第一幕:近づく気配
小屋を離れてしばらくすると、両腕に箱の重さが食い込んできた。中身の金具や工具が歩調に合わせて鈍い音を立てる。持てない重さではないが、足場の悪い場所で抱えたまま走るとなれば話は別だった。シグは一度だけ箱を持ち直す。
「重い?」
後ろからエルセリアが尋ねる。
「平気。ただ、何か出たら先に置く」
剣を抜くには右手を空けなければならない。それ以前に、この重さを抱えたままでは身軽に動けない。先頭を行くエイリクが足を止めた。左手の甲に淡い光が浮かぶ。
「少し待て」
シグも立ち止まる。エイリクは目を細めたまま林の方へ顔を向け、それから帰路へ続く細道を見た。
「一匹いる。先だ」
「道の近くか?」
「近いな。このまま行けばぶつかる」
シグは荷箱を下ろさず、周囲を見回した。正面の道は緩く下り、その先で木々の間へ入っている。右手には草の浅い斜面があり、少し遠回りすれば林を避けて元の道へ戻れそうだった。
「右から回ろう」
エイリクは何も言わない。エルセリアもすでに斜面へ視線を向けていた。
三人は道を外れる。背の低い草を踏み、傾斜を斜めに下った。荷箱が腕の中でずれそうになるたび、シグは歩幅を小さくする。途中、一度だけ林の奥から獣の鳴き声が聞こえたが、近くはない。三人は足を止めず、そのまま斜面を回り込んだ。
やがて木々の切れ目から元の道が見える。
「どうだ?」
シグの問いに、エイリクは左手を少し上げた。
「もう離れた。追ってきてもいない」
シグは息を吐く。戦わなかった。それでも先へ進めた。荷箱を抱え直して道へ戻り、再び乾いた土を踏む音と、箱の中で金具が触れ合う音だけが続いた。
陽が少しずつ西へ傾く頃、エイリクがまた足を止めた。今度は何も言わない。左手の甲が淡く光る。先ほどと違い、すぐには消えない。
「どうした?」
シグが声を落とす。エイリクは答えず、ゆっくりと顔を巡らせた。林、斜面、そして自分たちが離れてきた小屋の方向。眉間に深い皺が寄る。
「……変だな」
「何が?」
「さっきまでいた奴らが動いてる」
「こっちに?」
「逆だ」
エイリクは林の奥へ視線を向けた。
「離れてる」
シグは一瞬だけ肩の力を抜きかけた。危険が遠ざかるなら都合がいい。だが、エイリクは歩き出さない。
「一匹だけじゃない。小屋の周りにいた奴も、斜面側にいた奴もだ。だいたい同じ方から離れてる」
エルセリアが周囲を見た。
「追われている?」
「そこまでは分からん」
エイリクは左手を下ろした。
「ただ、近づきたくない何かがいるらしい」
シグは荷箱を抱えたまま林を見る。木々は静かで、先ほどまで聞こえていた鳥の声もいつの間にか消えていた。三人は進む速度を落とす。
ほどなくして、エルセリアが立ち止まった。
「シグ。そこ」
示された木の幹に、深い傷が刻まれている。シグは箱を地面へ置き、近づいた。
爪痕だった。
四本。
胸元よりも高い位置から斜め下へ走り、樹皮だけでなく木そのものを深く抉っている。シグは指を当てず、傷の幅を目で追った。
「……大きいな」
「こっちにもある」
エイリクの先には若木が倒れていた。切られたのではなく、幹が途中から折れ、裂けた木肌が白く剥き出しになっている。その周辺の土には巨大な窪みが残されていた。シグの靴よりずっと大きく、一つではない。重いものが歩いた跡が林の奥へ続いており、その脇に黒ずんだ毛と骨が散らばっていた。食い残しらしい。シグは黙って荷箱のところへ戻る。
「分かるか?」
エイリクの問いに、エルセリアが痕跡から目を離さないまま答えた。
「ブルータルウルサス」
その名前に聞き覚えはない。だが、ただの魔獣ではないことくらい、足跡を見れば分かる。
「強いのか?」
「兵災級だ」
エイリクの声が低くなる。シグはもう一度、折れた木を見た。
「……戦う相手じゃないな」
「ああ」
返事を待つまでもなく、シグは地図を取り出した。このまま進めば痕跡の続く方角へ近づく。少し南へ下れば起伏は増えるが、別の道へ抜けられる。
「回ろう」
地図を畳んで荷箱を持ち上げ、三人は来た方向へ少し戻ってから斜面を下った。足音を抑え、枝を踏まない。エルセリアが後方を見ながら進み、エイリクは時折立ち止まって周囲を探る。
まだ何も来ない。林から距離が開いていく。このまま抜けられる。
そう思った時だった。
エイリクが急に止まり、左手の甲が光る。
「待て」
シグも足を止めた。数秒の静寂のあと、エイリクの表情が硬化する。
「一匹いる」
シグは荷箱を抱えたまま身構えた。
「さっきの魔獣か?」
「違う」
エイリクは林を睨んでいる。
「でかい。今までの奴とは比べものにならん」
シグの喉が鳴った。
「こっちへ来てる?」
「……向きを変えた」
次の瞬間、遠くで枝が折れた。小さな音ではない。続けて、何か重いものが地面を踏みつける響きが届く。エイリクが短く息を吐いた。
「走るぞ」
三人は動いた。シグも荷箱を抱えたまま斜面を下る。だが、後ろの音は離れない。むしろ近づいてくる。木の折れる音が大きくなり、気配が背中に迫る。
「速い!」
エイリクの声が飛ぶ。シグは振り返らなかった。荷箱の重みで足が沈む。捨てる。そう頭をよぎった瞬間、さらに近くで低い地響きがした。箱を放り出して走っても、背を向けたまま追いつかれる。
シグは足を止めた。
「来るぞ」
エイリクの声に、シグは荷箱を地面へ下ろした。
右手が剣の柄を握る。
今度は、抜かなければならなかった。




