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Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第三章:「冒険者への第一歩」

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第二話:新人冒険者シグ・フリューゲン/第四幕:冒険者の判断

 シグは荷箱へ近づかないまま、周囲を探った。


 風が吹き抜けるたび、乾いた草が音を立てて擦れ合う。足元の泥には、深さも幅も違う足跡が不規則に踏みつけられていた。複数の魔獣が、この辺りを行き来している。


 小屋の右手には低い石壁の跡が伸び、その向こうから林が始まっている。反対側は緩い斜面になっていて、背の高い草が街道の方まで続いていた。


 足跡は、その両方へ伸びている。


「こっちは新しい」


 エイリクが土の一角を指した。


 シグも腰を落とす。乾いた跡の上から、まだ縁の崩れていない踏み跡が重なっていた。


「いつ頃だ?」


「正確には分からん。だが、昨日よりは新しいだろうな」


 依頼人が荷箱を残したあとにも、何かがここを通っている。


 シグは立ち上がり、荷箱までの距離を測った。


 走ればすぐに届く。


 だが、箱を持ち上げた状態では同じようには動けない。


 その時、林の奥で乾いた小枝が踏み折れる音がした。


 三人の視線がそちらへ向く。


 葉の隙間で何かが動いた。距離にして十数歩。小屋の裏手にあたる傾斜の陰から、低い唸り声のようなものが風に乗って流れてくる。


 姿は見えない。


 灰褐色の魔獣が、木々の間を横切った。陽を受けた背の表面が、鱗のように鈍く光る。地面を這うように胴を低くし、前脚だけが不釣り合いに長い。枝葉の向こうへ消える直前、細長い尾が一度だけ見えた。


 シグの右手は反射的に、腰にある剣の柄へ伸びていた。親指が鍔の端に触れる。冷たい鉄の感触が、慣れ親しんだ安心感を呼び起こそうとする。


 魔獣はこちらへ向かってこない。


 林の中を進み、やがて遠くで鳥が一羽、突然空へ飛び立った。


「さっきの足跡の奴か?」


「分からないわ」


 エルセリアは声を抑えたまま答えた。


「少なくとも、こちらにはまだ気づいていないみたいね」


 シグは柄を握ったまま林を見つめた。


 今なら追えるかもしれない。


 距離を詰めて剣の届く場所まで入れば、戦うことはできる。正面の相手を斬り、回り込んできたものに備える。そんな戦い方が頭に浮かぶ。


 一歩踏み出そうとしたところで、エイリクが低く言った。


「何をしに来た?」


 シグの足が止まる。


「え?」


「その魔獣を狩りに来たのか?」


 シグは返事をしなかった。


 視線だけを荷箱へ戻す。


 依頼は周辺の確認と箱の回収だ。討伐ではない。


「……違う」


「なら、まず仕事を見ろ」


 それだけ言って、エイリクは黙った。


 シグは剣から手を離さなかったが、林へ向かうのはやめた。


 荷箱は見えている。魔獣は離れた。今なら回収できるようにも思える。


 だが、足跡は一種類ではない。


 シグはもう一度周囲を見た。林。石壁。斜面。


 もし箱を取りに出たところで別の魔獣が現れたら、どこへ逃げる。


 箱を捨てれば走れる。それなら最初から、無理に取る必要があるのか。


「二人は、離れたところから攻撃できるか?」


 シグが尋ねると、エイリクは首を横に振った。


「俺には無理だ」


 シグはエルセリアを見る。


「私の紋章も、そういう使い方には向いていないわ」


 なら、こちらから仕掛けるには近づくしかない。


 シグは林へ目を戻した。


 その直後、今度は斜面の草が大きく揺れた。


 風ではなかった。一箇所だけが倒れ、少し遅れて別の場所が動く。


 何かが中を進んでいる。


 シグは身体の向きを変えた。林とは反対側だ。剣の柄を握り直す。


 こちらも距離がある。草に隠れて姿は見えない。


 石でも投げれば届くかもしれないが、追い払える保証はない。下手に刺激してこちらへ呼び寄せれば、かえって状況を悪くする。


 シグは剣を抜かなかった。


 草の揺れは、小屋の裏手へ回り込むように移動していく。


「二方向か」


 エイリクが呟く。


「いや」


 シグは地面へ目を落とした。


 荷箱の近くにも、まだ新しい足跡がある。林で見たものとも、斜面を動いているものとも形が違う。


 どこかにもう一体いる可能性がある。


 喉が乾いた。


 さっきまでなら、箱を取って帰れば終わると思っていた。


 今は、箱までの短い距離が妙に長く見える。


 依頼を受けた時には、ここまで分かっていなかった。


 箱を取りに行くことはできる。少なくとも、ここから見える範囲では。


 何もせず戻っても、ここで見たものは報告できる。


 だが、本当に今戻るべきなのか。


 シグは手にした依頼書へ目を落とし、それからエルセリアを見た。


「エルセリア」


「なに?」


「もし俺が、あの箱を取りに行くって言ったら?」


「理由を聞くわ」


「危ないからやめろ、じゃなくて?」


「危ないことを全部やめるなら、冒険者の仕事はほとんどできないもの」


 シグは少しだけ口を閉じた。


「じゃあ、戻るって言ったら?」


「同じ。理由を聞く」


 シグは苦笑しかけて、やめた。


 結局、決めるのは自分だった。


 剣が届くところまで行けば、戦える。それは分かっている。


 だが、届くところまで自分から行くことが、今やるべきことなのか。


 シグはもう一度、荷箱とその周囲を見た。


 取りに行くか、諦めて戻るか。


 シグは周囲を見回した。


 魔獣がどこにいるのか分かれば、動けるかもしれない。


「二人のどっちか、周りにいる魔獣の位置を探れないか?」


「俺ならできる」


 答えたのはエイリクだった。


 シグはそちらを見る。


「紋章で?」


「ああ。魔法を使う」


「なら、頼めるか?」


 エイリクは頷き、目を閉じた。


 呼吸がゆっくりと深くなり、エイリクの左手の甲にある《狩猟王の刻印(キングス・ハント)》が淡く光る。


《知覚強化《ハンターズセンス》》


 シグには何をしているのか分からなかったが、やがてエイリクが林へ顔を向ける。


「さっきの奴は奥へ移動してる。今は離れてるな」


 次に、斜面へ視線を移した。


「こっちは一匹。小屋の裏を回ってる」


「他には?」


 エイリクはすぐには答えなかった。


 風が草を揺らす。


「……近くにもう一匹いる。小屋の向こうだ」


 シグの視線が荷箱へ向いた。


 見えない。


 小屋に遮られている。


「箱の近くには?」


「今は何もいない」


「どれくらい分かる?」


「俺が探れる範囲だけだ。その外まではわからん」


 つまり、安全になったわけではない。


 ただ、さっきまでより分かることが増えた。


 シグは荷箱までの距離をもう一度測った。


 今なら行ける。


「エルセリア。斜面の方を見ていてくれないか」


「分かったわ」


「エイリクは、何かこっちへ近づいたら教えてくれ」


「ああ」


 シグは荷袋をその場に下ろした。


 腰の剣を確かめる。


 抜くためではない。


 抜かなければならなくなった時のためだ。


「俺が取ってくる」


 シグは荷箱へ向かった。


 走ればすぐに着く距離だったが、足元の跡を踏まないよう進む。周囲から聞こえる音にも意識を向けた。


 荷箱へ辿り着き、取っ手に手を掛ける。


 持ち上げる。


 思ったより重い。


 これを抱えたままでは、やはり走れない。


「シグ」


 エイリクの声が飛んだ。


 身体が固まる。


「止まれ」


 シグは箱を置かず、その場で動きを止めた。


 右手を離せば剣を抜ける。


 だが、まだ柄には触れなかった。


 林の奥で、枝葉が揺れた。


「来るのか?」


「……いや」


 短い間を置いて、エイリクが答える。


「横へ抜けた。離れていく」


 シグは息を吐いた。


 荷箱を抱え直す。


「斜面は?」


「動いてないわ」


 エルセリアの声が返ってくる。


 シグは二人のところへ戻り始めた。


 急がない。


 箱を落とさない。


 足元を確かめながら、一歩ずつ距離を縮める。


 やがて元いた場所まで戻ると、荷箱を地面へ下ろした。


 肩から力が抜けた。


 林を見る。


 斜面を見る。


 どちらからも魔獣は現れない。


 シグは腰の剣へ目を落とした。


 結局、一度も抜かなかった。


「取れたな」


 エイリクが言った。


「ああ」


 シグは依頼書を開いた。


 周辺の確認と、荷箱の回収。


 荷箱から周囲へ目を移し、紙を畳む。


「戻ろう」


 シグは荷箱を持ち上げた。


 今度は、誰にも判断を尋ねなかった。

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