第二話:新人冒険者シグ・フリューゲン/第四幕:冒険者の判断
シグは荷箱へ近づかないまま、周囲を探った。
風が吹き抜けるたび、乾いた草が音を立てて擦れ合う。足元の泥には、深さも幅も違う足跡が不規則に踏みつけられていた。複数の魔獣が、この辺りを行き来している。
小屋の右手には低い石壁の跡が伸び、その向こうから林が始まっている。反対側は緩い斜面になっていて、背の高い草が街道の方まで続いていた。
足跡は、その両方へ伸びている。
「こっちは新しい」
エイリクが土の一角を指した。
シグも腰を落とす。乾いた跡の上から、まだ縁の崩れていない踏み跡が重なっていた。
「いつ頃だ?」
「正確には分からん。だが、昨日よりは新しいだろうな」
依頼人が荷箱を残したあとにも、何かがここを通っている。
シグは立ち上がり、荷箱までの距離を測った。
走ればすぐに届く。
だが、箱を持ち上げた状態では同じようには動けない。
その時、林の奥で乾いた小枝が踏み折れる音がした。
三人の視線がそちらへ向く。
葉の隙間で何かが動いた。距離にして十数歩。小屋の裏手にあたる傾斜の陰から、低い唸り声のようなものが風に乗って流れてくる。
姿は見えない。
灰褐色の魔獣が、木々の間を横切った。陽を受けた背の表面が、鱗のように鈍く光る。地面を這うように胴を低くし、前脚だけが不釣り合いに長い。枝葉の向こうへ消える直前、細長い尾が一度だけ見えた。
シグの右手は反射的に、腰にある剣の柄へ伸びていた。親指が鍔の端に触れる。冷たい鉄の感触が、慣れ親しんだ安心感を呼び起こそうとする。
魔獣はこちらへ向かってこない。
林の中を進み、やがて遠くで鳥が一羽、突然空へ飛び立った。
「さっきの足跡の奴か?」
「分からないわ」
エルセリアは声を抑えたまま答えた。
「少なくとも、こちらにはまだ気づいていないみたいね」
シグは柄を握ったまま林を見つめた。
今なら追えるかもしれない。
距離を詰めて剣の届く場所まで入れば、戦うことはできる。正面の相手を斬り、回り込んできたものに備える。そんな戦い方が頭に浮かぶ。
一歩踏み出そうとしたところで、エイリクが低く言った。
「何をしに来た?」
シグの足が止まる。
「え?」
「その魔獣を狩りに来たのか?」
シグは返事をしなかった。
視線だけを荷箱へ戻す。
依頼は周辺の確認と箱の回収だ。討伐ではない。
「……違う」
「なら、まず仕事を見ろ」
それだけ言って、エイリクは黙った。
シグは剣から手を離さなかったが、林へ向かうのはやめた。
荷箱は見えている。魔獣は離れた。今なら回収できるようにも思える。
だが、足跡は一種類ではない。
シグはもう一度周囲を見た。林。石壁。斜面。
もし箱を取りに出たところで別の魔獣が現れたら、どこへ逃げる。
箱を捨てれば走れる。それなら最初から、無理に取る必要があるのか。
「二人は、離れたところから攻撃できるか?」
シグが尋ねると、エイリクは首を横に振った。
「俺には無理だ」
シグはエルセリアを見る。
「私の紋章も、そういう使い方には向いていないわ」
なら、こちらから仕掛けるには近づくしかない。
シグは林へ目を戻した。
その直後、今度は斜面の草が大きく揺れた。
風ではなかった。一箇所だけが倒れ、少し遅れて別の場所が動く。
何かが中を進んでいる。
シグは身体の向きを変えた。林とは反対側だ。剣の柄を握り直す。
こちらも距離がある。草に隠れて姿は見えない。
石でも投げれば届くかもしれないが、追い払える保証はない。下手に刺激してこちらへ呼び寄せれば、かえって状況を悪くする。
シグは剣を抜かなかった。
草の揺れは、小屋の裏手へ回り込むように移動していく。
「二方向か」
エイリクが呟く。
「いや」
シグは地面へ目を落とした。
荷箱の近くにも、まだ新しい足跡がある。林で見たものとも、斜面を動いているものとも形が違う。
どこかにもう一体いる可能性がある。
喉が乾いた。
さっきまでなら、箱を取って帰れば終わると思っていた。
今は、箱までの短い距離が妙に長く見える。
依頼を受けた時には、ここまで分かっていなかった。
箱を取りに行くことはできる。少なくとも、ここから見える範囲では。
何もせず戻っても、ここで見たものは報告できる。
だが、本当に今戻るべきなのか。
シグは手にした依頼書へ目を落とし、それからエルセリアを見た。
「エルセリア」
「なに?」
「もし俺が、あの箱を取りに行くって言ったら?」
「理由を聞くわ」
「危ないからやめろ、じゃなくて?」
「危ないことを全部やめるなら、冒険者の仕事はほとんどできないもの」
シグは少しだけ口を閉じた。
「じゃあ、戻るって言ったら?」
「同じ。理由を聞く」
シグは苦笑しかけて、やめた。
結局、決めるのは自分だった。
剣が届くところまで行けば、戦える。それは分かっている。
だが、届くところまで自分から行くことが、今やるべきことなのか。
シグはもう一度、荷箱とその周囲を見た。
取りに行くか、諦めて戻るか。
シグは周囲を見回した。
魔獣がどこにいるのか分かれば、動けるかもしれない。
「二人のどっちか、周りにいる魔獣の位置を探れないか?」
「俺ならできる」
答えたのはエイリクだった。
シグはそちらを見る。
「紋章で?」
「ああ。魔法を使う」
「なら、頼めるか?」
エイリクは頷き、目を閉じた。
呼吸がゆっくりと深くなり、エイリクの左手の甲にある《狩猟王の刻印》が淡く光る。
《知覚強化》
シグには何をしているのか分からなかったが、やがてエイリクが林へ顔を向ける。
「さっきの奴は奥へ移動してる。今は離れてるな」
次に、斜面へ視線を移した。
「こっちは一匹。小屋の裏を回ってる」
「他には?」
エイリクはすぐには答えなかった。
風が草を揺らす。
「……近くにもう一匹いる。小屋の向こうだ」
シグの視線が荷箱へ向いた。
見えない。
小屋に遮られている。
「箱の近くには?」
「今は何もいない」
「どれくらい分かる?」
「俺が探れる範囲だけだ。その外まではわからん」
つまり、安全になったわけではない。
ただ、さっきまでより分かることが増えた。
シグは荷箱までの距離をもう一度測った。
今なら行ける。
「エルセリア。斜面の方を見ていてくれないか」
「分かったわ」
「エイリクは、何かこっちへ近づいたら教えてくれ」
「ああ」
シグは荷袋をその場に下ろした。
腰の剣を確かめる。
抜くためではない。
抜かなければならなくなった時のためだ。
「俺が取ってくる」
シグは荷箱へ向かった。
走ればすぐに着く距離だったが、足元の跡を踏まないよう進む。周囲から聞こえる音にも意識を向けた。
荷箱へ辿り着き、取っ手に手を掛ける。
持ち上げる。
思ったより重い。
これを抱えたままでは、やはり走れない。
「シグ」
エイリクの声が飛んだ。
身体が固まる。
「止まれ」
シグは箱を置かず、その場で動きを止めた。
右手を離せば剣を抜ける。
だが、まだ柄には触れなかった。
林の奥で、枝葉が揺れた。
「来るのか?」
「……いや」
短い間を置いて、エイリクが答える。
「横へ抜けた。離れていく」
シグは息を吐いた。
荷箱を抱え直す。
「斜面は?」
「動いてないわ」
エルセリアの声が返ってくる。
シグは二人のところへ戻り始めた。
急がない。
箱を落とさない。
足元を確かめながら、一歩ずつ距離を縮める。
やがて元いた場所まで戻ると、荷箱を地面へ下ろした。
肩から力が抜けた。
林を見る。
斜面を見る。
どちらからも魔獣は現れない。
シグは腰の剣へ目を落とした。
結局、一度も抜かなかった。
「取れたな」
エイリクが言った。
「ああ」
シグは依頼書を開いた。
周辺の確認と、荷箱の回収。
荷箱から周囲へ目を移し、紙を畳む。
「戻ろう」
シグは荷箱を持ち上げた。
今度は、誰にも判断を尋ねなかった。




