第一話:新たな道の先に/第三幕:名を告げる
女性職員はシグの顔を見たあと、手元の紙束から一枚を抜き取った。
「新規登録ですね。では、先にいくつか確認します」
机の端に置かれていたインク壺の蓋を開け、細い筆先を浸す。周囲では相変わらず人の声が行き交い、少し離れた受付から硬貨を数える音が聞こえていた。
「正式な登録名は手続きの最後に記入します。まず年齢を」
「十七」
職員の筆が紙の上を走る。
「種族は人間。出身は?」
「リューン王国です」
そこで一瞬、紙を擦る音が途切れた。職員は目線すら上げずに筆先を整え、すぐに続きを書き始めた。
「戦闘経験はありますか?」
「あります」
「主に使う武器は?」
シグは腰の剣を指した。
「片手剣です」
「魔法は?」
その問いに、返事が少し遅れた。
以前なら迷わず「使えない」と答えていた。
今は違う。
「……ほとんど使えません」
嘘ではない。魔力があることは分かっている。エルセリアに教わって流れを動かす練習もした。それでも、一般的な魔法を自在に扱える状態にはほど遠かった。
女性職員は特に追及せず、紙へ書き込んだ。
「ほかに、採取、探索、治療、解体などの経験は?」
「その辺は、ほとんどないです」
「分かりました。未経験でも登録自体には問題ありません」
次の項目へ移ろうとしたところで、シグは机の上の用紙に目を落とした。
「あの」
「はい?」
「身分証って、必要ですよね」
職員が筆を止める。
「お持ちですか?」
「……出せません」
少し離れたところに立つエルセリアとエイリクは何も言わなかった。
シグは続ける。
「リューン王国のものなら、以前は持っていました。でも、今はそれを使えないんです」
理由まではまだ口にしなかった。
職員はシグの顔を見たあと、意外にも困った様子を見せなかった。
「国家発行の身分証明書がなくても、登録はできますよ」
「できるんですか?」
思わず聞き返した。
「珍しいことではありません。戦争や災害で身分証を失う方もいますし、そもそも国家の戸籍に入っていない地域の出身者もいますから」
「じゃあ、身分証がなくても……」
「それだけを理由にお断りすることはありません。必要なら別の方法で本人確認を行います」
胸の奥に入っていた力が、わずかに抜けた。
サヴァールを出る前、エルセリアから聞いた話と同じだった。
女性職員は次の紙へ手を伸ばした。
「それでは、本人確認について――」
「待ってください」
シグは自分でも思っていたより強い声を出していた。
職員の手が止まる。
このまま何も言わなければ、手続きは先へ進むのかもしれない。
けれど、エルセリアの言葉も覚えている。
問題は、それだけではない。
「俺……リューン王国に探されています」
受付の向こうで、筆を持つ手が静かに下がった。
「探されている、というのは?」
「故郷で事件がありました。シイバっていう村です」
口にした地名が、思ったより重く舌に残った。
「その事件の関係者として、王国が俺を探しています。見つけたら、身柄を確保する方針だって聞きました」
職員の表情から笑みが消えた。険しくなったわけではない。ただ、それまでより明らかに慎重にシグを見ている。
「犯罪の容疑をかけられているのですか?」
「分かりません」
「分からない?」
「俺自身、王国から直接説明を受けたわけじゃないんです。事情を聞くことと……俺の持っている力を調べるために確保しようとしている、と聞いています」
右腕がわずかに強張った。シグはそれ以上、腕へ意識を向けないようにした。
「正式に犯罪者として手配されてるのかも分かりません」
女性職員はすぐには返事をしなかった。周囲の喧騒だけが妙にはっきり聞こえる。紙をめくる音。誰かが笑う声。検分用の槌が素材を軽く叩く乾いた音。
シグは横を見なかった。ここまで話したのは自分だ。エルセリアにも、エイリクにも代わってもらうつもりはなかった。
「その件について、リューン王国から連盟へ何か通達が出ている可能性はありますか?」
職員が尋ねた。
「それも分かりません」
「お名前は?」
一瞬、喉が詰まった。まだ登録名を書く段階ではない。それでも、確認するなら必要になる。
シグは息を吸った。
「……シグです」
職員はその名を控えたあと、もう一度確認する。
「姓は?」
シグは一度口を開きかけ、そのまま唇を閉じた。
ここで引き下がるなら、最初から何も話さなければよかった。
息を整え、シグは答えた。
「……フリューゲンです」
職員の筆先が紙へ走り、その名を静かに書き留めた。
手元の通常登録用の書類を揃え、その上に別の紙を重ねる。
「このまま通常の登録手続きを進めることはできません」
胸の奥が再び固くなる。
「登録できないんですか?」
「まだ、そう決まったわけではありません」
職員は首を横に振った。
「リューン王国から、あなたについてどのような情報が届いているのか確認します。犯罪者としての手配なのか、身柄の引き渡しを求めるものなのか、それとも別の扱いなのか。それによって対応が変わります」
シグは黙って聞いた。
女性職員は書類を閉じた。
「少しお時間をいただきます」
そして、まっすぐシグを見る。
「あなたの場合、登録できるかどうかを先に確認する必要があります」
シグは小さく頷いた。
職員が席を立ち、書類を持って奥へ消えていく。
受付前に残ったシグは、何も書かれていない登録用紙の端をしばらく見つめていた。




