第一話:新たな道の先に/第一幕:旅人たちの街、バルサ
サヴァールを離れて三日目の昼、街道脇の木陰で一行は足を止めた。
シグは旅袋を下ろすと、水袋を持ち上げた。中で水が揺れる感触を確かめ、残りを見てから栓を閉める。保存食はまだ二日分ある。剣帯の留め具にも緩みはない。靴底に挟まっていた小石を爪先で落とし、紐を締め直した。
少し離れた場所では、エイリクが地面へ地図を広げている。
「次の宿場まで、あとどれくらいだ?」
シグが尋ねると、エイリクは道の先へ顎を向けた。
「この歩調なら日が傾く前には着く。休むなら今のうちだな」
「分かった」
シグはそれ以上聞かず、木の根元へ腰を下ろした。
街道には朝から人通りが絶えない。サヴァールを出た直後よりも、明らかに数が増えていた。
荷を山のように積んだ商隊が鈴を鳴らしながら通り過ぎ、その後ろを、統一感のない装備を身につけた一団が歩いていく。大きな鞄を抱えた老人、聖印らしきものを首から下げた旅人、書物を紐で束ねて背負った若者の姿もあった。
人間だけではない。
毛に覆われた耳を持つ獣人の商人が荷車の御者台で声を張り、少し先では小柄なドワーフが仲間と何かを言い合っている。
シグは水を一口飲んでから、流れていく人々を目で追った。
「みんな、バルサへ?」
「全員じゃないでしょうけど、多いでしょうね」
エルセリアは風に流れる髪を軽く押さえ、木にもたれたまま答えた。
「『黄金の都』なんて呼ばれるくらいだもの。仕事や商売目当ての人間は世界中から集まるわ。この先で別の街道とも合流するしね」
実際、その日の午後には道幅が倍近くに広がった。
右手から伸びてきた別の街道が合わさり、そこからさらに荷車と人が増える。行き交う者を避けるため、三人が横並びで歩けない場所さえあった。
車輪が軋む乾いた音、馬蹄が地を打つ振動、怒号交じりの呼び声。踏み荒らされた乾いた土が宙に舞い、口の中に微かな砂粒のザラつきが残る。
「サヴァールより多いな」
シグが呟くと、エイリクが笑った。
「まだ街の外だぞ」
「これで?」
「見れば分かる」
それからしばらく歩き、街道が緩い丘を越えたところで、シグは足を止めた。
遠くに城壁が見えた。
最初は横へ長く伸びる灰色の線にしか見えなかったが、近づくにつれて、その向こうに幾つもの屋根や塔、そして外郭沿いに組まれた巨大な揚水機関の骨組みが浮き彫りになっていく。城門へ向かって伸びる道は一本ではない。別方向から来た街道が次々に合流し、人と荷車の列が同じ場所へ吸い込まれていた。
シグは思わず目を細めた。
「……あれが、バルサ?」
「ええ」
エルセリアの返事は淡々としている。
エイリクも特に足を止めず、そのまま坂を下っていく。
シグだけが数歩遅れた。
サヴァールを初めて見た時も、人の多さには驚いた。けれど今、目の前にある都市は、その記憶を簡単に小さくしてしまう。城壁の外にも倉庫や厩舎らしい石造りの建物が並び、道端では商人たちが荷の確認をしている。
「置いてくぞ」
前からエイリクの声が飛んでくる。
シグは我に返って歩き出した。
◇
城門を抜けた瞬間、音が一段大きくなった。
店先から飛ぶ呼び込みの声に、荷車の車輪が石畳を叩く高音が重なる。焼いた肉の匂いのすぐ隣から香辛料の強い香りが流れ、その向こうでは見たことのない果物が籠いっぱいに積まれていた。
建物も高い。通りの両側には二階、三階まである石造りの建物が続き、その間からさらに奥の尖塔や大きな円屋根が覗いている。
シグは人波を避けながら歩く。
肩がぶつかりそうになって身を引くと、その脇を大きな荷を背負った男が早足で通り過ぎた。反対側からは、身の丈ほどもある大剣を背負った武装した男女が、低い声で話し合いながら歩いてくる。
「すごいな……」
思わず漏れた声に、エイリクが振り返る。
「何がだ?」
「全部」
「雑だな」
エルセリアは小さく笑っていた。
二人は足を緩めない。
シグもその背を追いかけた。
目の前には、まだ名前も知らない通りが幾つも伸びていた。
「まずは冒険者ギルドの本部へ行くぞ」
エイリクが人の波を分けながら、肩越しに言った。
「分かった」
石畳の通りを進むにつれ、シグの目に入るものは次々と変わっていった。
大通り沿いには露店だけでなく、間口の広い商店が連なっている。剣や槍を並べた店の隣では、油の染みついた作業着を着た職人が客の肩幅に革尺を当てていた。その向かいでは、乾燥させた薬草の酸っぱい匂いが漂い、色の濃い液体を詰めた小瓶が棚いっぱいに並んでいる。
少し先では、泥のこびりついた袋を担いだ二人組が店先で中身を広げていた。獣の角らしきものや、硬そうな甲殻の欠片が布の上へ重い音を立てて転がる。店主が一つずつ手に取り、重さを確かめていた。
「素材を売ってるのか?」
シグが横目で見ながら尋ねると、エルセリアが頷いた。
「討伐した魔獣から取れるものもあるし、採取したものを持ち込む人もいるわ。使える部位なら買い取る店は多いでしょうね」
「倒したら終わりじゃないんだな」
「食べていくなら、その後の方が大事なこともある」
エイリクが前を歩いたまま答えた。
素材を売っていた二人は店主から硬貨を受け取ると、そのまま通りの反対側へ渡った。一人は靴屋へ入り、磨り減った革底を店主に見せている。もう一人は刃物を並べた店の前で足を止めた。
シグはしばらくその背中を見送った。サヴァールでも、傭兵たちは仕事の金で食料を買い、装備を整えていた。ここでも同じように、武器を持つことが暮らしの中へ繋がっている。
ただ、目に入る仕事の形はずっと多かった。
大きな籠から薬草を仕分ける女の隣で、長杖を持った男が店主と話し込んでいる。少し離れた場所には荷車を囲んで地図を広げる一団がいた。武装している者もいれば、腰に巻物の束を提げた者もいる。
通りを横切った三人組からは、シグには聞き取れない言葉が聞こえてきた。
「今の、何語だ?」
「さあな」
エイリクは振り返りもしない。
「俺も知らん」
「エイリクでも?」
「俺を何だと思ってる」
その隣でエルセリアが笑う。
シグはもう一度、今しがた通り過ぎた三人を見た。服の仕立ても、腰に下げた短剣の形も見慣れない。同じ通りを歩いているのに、どこから来たのかさえ分からない人間がいくらでもいる。
やがて大通りから少し外れたところで、宿屋の看板が続けて目に入った。
馬を預けられる大きな厩舎を備えたものもあれば、入口脇に武器を預かるためらしい棚を設けた店もある。向かいには防具の修理を請け負う工房があり、軒先で職人がへこんだ胸当てをカン、カンと槌で叩いていた。
シグは周囲を見回した。
「この辺、武器を持った人向けの店が多いな」
「ギルド本部が近いからよ」
エルセリアが前方を指す。
「冒険者が集まれば、必要な店も集まるでしょう」
肩に血の滲んだ包帯を巻いた男が、仲間に支えられながら宿へ入っていった。そのすぐ後ろでは、傷一つない皮鎧を着た若い二人組が真新しい盾を抱え、店先で値段を見比べている。
同じように武器を持っていても、何をしてきたのかはまるで違う。
やがて前方の人通りがさらに増えた。
広場に近い一角で、幾つもの通りから人が集まっている。その先に、周囲より間口の広い石造りの建物が見えた。
派手な装飾は少ない。代わりに、正面には大きな黒鉄の扉がいくつも並び、人の出入りが絶えなかった。
入口脇では、泥まみれの外套を着た一団が大きな袋を地面へ下ろしている。別の扉からは、紙束を抱えた女が早足で出てきた。その横を、片脚を引きずる男を支えた二人組が通り過ぎる。
シグは足を緩める。
「ここが?」
「ああ」
エイリクが建物を見上げた。
「世界冒険者ギルド連盟本部だ」
名前から想像していたような威圧感はなかった。それよりも先に目につくのは、扉を行き交う人間の多さだった。
仕事を探しに来たのか、終えて戻ってきたのか。それすらシグにはまだ分からない。
エルセリアは迷う様子もなく入口へ向かう。エイリクも続いた。
シグは一度だけ建物の正面を見上げた。
サヴァールで傭兵ギルドの前に立った時とは違う。
シグは旅袋の肩紐を握り直し、自分から扉へ歩いた。




