第四話:帰る場所なき少年/第四幕:バルサへ
宿を出る頃には、昼を少し回っていた。
シグは自分の旅袋を背負い直し、肩紐の長さを確かめる。保存食は片側へ寄せすぎないよう詰め直した。革の水袋の栓を外し、一度中身を確かめてから締め直す。
「街道は南西へ。順調なら二つ宿場を挟んで数日ね」
エルセリアが宿の主人へ代金を払い終え、戻りながら言った。
「途中で水は汲めるか」
シグが尋ねると、エイリクが横から答える。
「最初の宿場までは街道沿いに沢がある。途中で一回足せば十分だ」
「じゃあ、この水袋ひとつで足りるな」
シグは水袋を旅袋の脇へくくりつけ、腰の剣帯を軽く引いて留め具の噛み合いを確かめた。
エイリクがそれを見て、旅袋を担ぎ直す。
「よし」
バルサまでは数日。そこへ着けば、冒険者というものを実際に見ることができる。
そう考えたところで、ふと一つ疑問が浮かんだ。
「……俺、登録できるのかな」
エルセリアが足を止めた。
「何が?」
「冒険者」
「今さらそこか」
エイリクが鼻を鳴らす。
「いや、だって俺、身分証も使えないだろ」
王国のものを出せば、自分が誰なのかを知らせることになる。そもそも今の自分が、王国からどんな扱いで外へ伝えられているのかも分からない。
「身分証を持っていないだけなら、それだけで登録できないとは限らないわ」
「そうなのか?」
「故郷を失った人や、国家の戸籍に入っていない人もいるもの。そういう人まで全部締め出していたら、冒険者ギルドは成り立たないでしょう」
「じゃあ俺も」
「そこまでは言えない」
エルセリアの返事は早かった。
「あなたの場合、問題は身分証がないことだけじゃないでしょう。リューン王国があなたをどういう立場で探しているのか、それが他国やギルドへどう伝わっているのか。私たちには分からないわ」
「冒険者になったら王国から守ってもらえる、なんて考えるなよ」
エイリクが念を押すように言った。
「冒険者証は盾じゃない。悪さをすりゃ、その土地の法で裁かれる」
シグは二人の言葉を聞きながら、ふと思い至ってエルセリアを見た。
「エルセリアのを見せてもらえるか」
「冒険者証?」
エルセリアは一瞬意外そうな顔をしたが、懐から小さな薄い金属板を取り出した。角が磨り減り、表面には細かな文字と記号が刻まれている。
シグはそれを受け取った。金属は手に冷たく、思いのほか軽い。
「これがあれば、どこでも身分を証明できるのか」
「登録された冒険者だということはね。それ以上のものではないわ」
「登録したら、名前も残るんだよな」
「ああ」
エイリクがシグの手元を見つめる。
「シグ・フリューゲンって」
「本名で登録するならな」
それ以上は誰も続けなかった。
シグは金属板をエルセリアに返し、通りの端へ寄る。車輪が乾いた石畳を鳴らし、荷車がゆっくりと通り過ぎていった。
名前を残す。
それは、自分がここにいると社会へ記録することでもある。身を隠すだけなら、そんなことはしない方がいい。けれど名前も立場も持たず、いつまでも誰かの後ろを歩くだけで生きていけるとも思えなかった。
答えは出なかった。今決めることでもない。
「行って、確かめる」
シグが言うと、エイリクは肩をすくめた。
「ああ。それでいいだろ」
◇
サヴァールの門を抜ける頃には、空が少し白く霞んでいた。
門前には出入りを待つ荷車が並び、馬の鼻息と人の呼び声が重なっている。
シグは列を抜けてから一度だけ振り返った。高い城壁の向こうに、街の屋根が重なって見える。
ここへ来た時、自分は何も知らなかった。シイバの話が外でどう広がっているのかも、王国が自分を探していることも。
いまも、分からないことは多い。
「遅いぞ、シグ」
少し先を歩いていたエイリクが振り向かずに声を投げてくる。
「今行く」
返事をして、シグは街へ向けていた身体を戻した。
剣は腰にある。
街道へ足を踏み出す。シグは歩調を上げ、先を行く二人に追いつくと、その横へ並んだ。
サヴァールの城壁が、一歩ごとに遠ざかっていく。
その先には、シグの知らない世界がいくらでもあった。




