第四話:帰る場所なき少年/第一幕:騎士の剣、傭兵の剣
翌朝、シグが宿の裏手へ出ると、エイリクはすでに待っていた。
建物の陰がまだ長く伸びている。朝の空気には夜の冷たさが残り、踏み固められた地面には薄く湿り気があった。
エイリクは壁際にもたれ、腕を組んでいた。シグの腰に吊られた剣を見ると、顎をわずかに上げる。
「ちゃんと来たな」
「暇なら付き合えって言ったのは、そっちだろ」
「昨日あれだけ動いた翌日に寝坊しないなら上出来だ」
エイリクは壁から背を離すと、宿の裏手から少し離れた空き地へ歩いていく。
積み上げられた木箱や樽が端へ寄せられ、荷車の轍が乾きかけた土の上に何本も残っていた。
シグも後を追う。
昨夜、剣の手入れをしている時にも迷いはなかった。鞘から抜くことを怖がっていた少し前とは違い、剣そのものを恐れる理由は、もうなかった。
ただ、右腕に宿った黒い紋章については別だった。袖の下に隠れていても、そこにあることは分かる。
「刃は使わん。鞘ごと抜け」
シグは言われた通り、剣を鞘に収めたまま腰から外した。
エイリクも腰の武器には触れず、近くに転がっていた細長い木材を拾う。
「それで?」
「俺に一発入れてみろ」
あまりにも簡単に言われ、シグは眉を寄せた。
「本気で?」
「朝飯前に終わらせたいなら、本気で来い」
シグは鞘に入った剣を正面へ構えた。
エイリクの立ち方には構えらしい構えがない。木材を片手に下げ、肩の力も抜けている。だからといって隙だらけには見えなかった。
シグは一度息を吐き、間合いを測る。
踏み込んだ。初撃は肩口を狙う。
エイリクは受けなかった。半歩だけ横へずれ、剣先の外へ出る。
シグはそのまま軸足を回し、横薙ぎへ繋いだ。
今度は木材が軽く鞘へ触れ、軌道を外へ押し流す。
力で弾いたわけではない。シグの腕が伸び切る直前、ほんの少し方向を変えられただけだった。
次の瞬間、エイリクはもう間合いの外にいる。
シグは追った。今度は不用意に踏み込まない。
足を刻み、逃げ道を狭めるように距離を詰める。
エイリクが笑った。
「そこは悪くない」
言い終わる前に、足元の小石を蹴った。
石が転がる。
反射的にシグの視線が落ちた。
直後、胸当てに鈍い衝撃が走った。
木材の先が胸元を捉えていた。
「一本」
「今のはずるいだろ」
「石投げて人が死ぬなら禁止にしてやる」
エイリクは木材を肩へ担ぎ、数歩下がった。
「もう一度」
シグは唇を引き結んだ。
二度目は視線を外さない。相手の肩、腰、足の向きを見る。
騎士団で何度も教えられた。
剣先だけを見るな。身体全体から次の動きを読め。
エイリクが下がる。シグは追いすぎず、逃げる方向へ先回りした。
その瞬間、エイリクが木箱を蹴った。
空箱が横倒しになり、シグの進路へ滑り込んでくる。
足を止めれば距離を取られる。
シグは箱を跨いだ。
着地したところへ、エイリクの肩がぶつかった。
体勢が崩れる。
踏ん張ろうとした足首へ木材が深く引っ掛かり、視界が跳ねた。
次の瞬間には背中から地面へ倒れていた。
肺から息が抜ける。見上げると、エイリクが木材の先をシグの喉元へ向けていた。
「終わりだな」
シグはしばらく空を見た。
薄い雲が流れている。
「……剣、ほとんど使ってないだろ」
「使う必要がなかった」
差し出された手を取り、シグは起き上がった。
背中についた土を払いながら、倒された木箱を見る。
「騎士団でこんな戦い方したら怒鳴られる」
「だろうな」
エイリクは即答した。
「だからって、お前が習った剣が悪いわけじゃない」
シグが顔を上げる。
「構えも足運びも悪くない。間合いも見てるし、守りも固い。昨日の戦いを見る限り、実戦で動けないわけでもない。ちゃんと仕込まれてる」
トーマスの顔が浮かんだ。何度倒されても立たされ、足が動かなくなるまで繰り返した訓練。あれを否定されたような気がしていたのだと、そこで気づいた。
エイリクは倒れた木箱を足で戻した。
「騎士には騎士の戦い方がある。命令があって、守る場所があって、隣には仲間がいる。持ち場を放り出して逃げたら困る場面もある」
「傭兵は違う?」
「違う時が多い。少なくとも俺は、負けると分かってる相手に正面から付き合う気はない」
「逃げるのか」
「必要ならな」
言い切ったエイリクに、迷いはなかった。
「仕事が荷物の護衛なら、荷物を目的地まで運べばいい。襲ってきた奴を全員倒す必要はない」
「でも、それじゃ逃げられるだろ」
「逃がして何が困る?」
シグは答えに詰まった。
「荷物が無事なら仕事は終わりだ。仲間が動けなくなったなら、敵よりそいつを担ぐ。戦う必要がないなら、剣なんか抜かなくていい」
「でも、相手を倒さなきゃ守れない時もあるだろ?」
「ある。なら倒せ」
エイリクはあっさり返した。
「ただ、その時も忘れるな。何のために剣を抜いた?」
シグの手が鞘を握る。
昨日、荷車の前へ飛び出した時のことを思い出した。
魔獣を倒したかったわけではない。助けたかった。
「……人を守るためだ」
「なら、お前まで死んだらどうする」
返事が出ない。
エイリクは木材を地面へ放った。
「お前、昨日もそうだったが、自分を数に入れてないだろ」
シグは眉を寄せる。
「そんなことは」
「ある」
言葉を重ねる隙を与えなかった。
「誰かが危なけりゃ先に身体が出る。それは別に悪くない。ただ、自分が倒れた後のことまで考えろ。そこで死ねば、次に助けられた奴は助けられなくなる」
風が抜け、シグの前髪を揺らした。
似たことを言われた気がした。自分まで守ろうとしろ。その声を追いかけそうになり、シグは奥歯を噛んだ。
エイリクはそれ以上踏み込まず、腰へ手を当てた。
「勝つだけなら、強い奴が一人いれば済むこともある」
一度言葉を切り、シグを見る。
「勝つことより、生きて帰ることの方が難しい」
シグはその言葉をすぐには飲み込めなかった。
敵を倒しても、守るべきものを失えば意味がない。
勝てなくても、連れて帰れれば目的を果たせることがある。
「もう一回やるか?」
エイリクが木材を拾い直す。
シグは剣を構えた。
「今度は石も箱も見る」
「そういうことじゃないんだがな」
呆れたように言いながら、エイリクは笑った。
二度目も、三度目も、シグはまともに一本を取れなかった。
だが、最後の一戦では、シグは進路を塞ぐ木箱を避けず、蹴り飛ばした。
木箱がエイリクの足元へ滑る。
「お」
エイリクが一歩退く。
今だ、と踏み込んだ瞬間には、その姿が正面から消えていた。
背中へ木材が触れる。
「一本」
「……なんでだよ」
「真似するのが早すぎる」
「使えるものは使えって言っただろ」
「使い方を考えろって話だ」
エイリクは笑って言った。
朝の光が高くなる頃、稽古は終わった。
シグは額の汗を袖で拭い、鞘に収まった剣を腰へ戻した。
騎士団で覚えた剣は、今も自分の中にある。それを捨てる必要はない。
ただ、この先もそれだけで足りるとは限らなかった。
シグは土にまみれた手を見てから、エイリクへ目を向けた。
「また教えてくれ」
「気が向いたらな」
エイリクは木材を放り捨て、宿へ戻っていく。
「朝飯食ったらまた来い」
シグはその背中を見る。
「それ、気が向いたってことでいいのか?」
返事はなかったが、シグは少しだけ口元を緩めた。




