第三話:それでも、この手で/第三幕:積み上げてきたもの
南門を抜けると、エイリクは街道脇に残る轍を追って走った。
サヴァールの城壁が背後へ遠ざかり、街道の両側には陽に乾いた低い草原と疎らな木々が広がっていく。南東へ延びる街道には、こちらへ逃げてくる旅人が何人か見えた。
「魔獣だ! 先へ行くな!」
すれ違いざまに男が叫ぶ。
「何匹いた?」
エイリクは足を止めずに聞いた。
「五、六……もっといたかもしれん!」
この辺りで複数現れる魔獣なら、シグにも心当たりがあった。
――ハリアージャッカル。
リューンとエルバの一帯にも生息する獣型の魔獣。単体なら訓練を受けた兵士でも倒せるが、群れで獲物を囲み、死角から襲う習性を持つ。
シグの知る限り、決して一体一体が手に負えない相手ではない。
ほどなくして、川に架かる古い石橋が見えてきた。
その手前で荷車が一台横倒しになっている。
地面には割れた木箱や布袋が散乱し、二頭いたらしい馬のうち一頭は倒れ、もう一頭は手綱を引き千切って逃げたらしい。
そして、その周囲を灰褐色の獣が動いていた。
「六体」
エルセリアが数える。
護衛らしい男が二人、荷車を背にして剣を構えていた。一人は左脚から血を流している。その後ろには商人らしい男女が身を寄せ合っていた。
三体のハリアージャッカルが正面にいる。
残る三体は距離を取り、左右へ散っていた。
「囲んでやがるな」
エイリクが斧を抜いた。
一体が護衛へ飛び掛かる。
男が剣を振るうと、魔獣は地面を蹴って横へ逃れた。
直後、死角へ回っていた別の一体が走る。
狙いは負傷した護衛だった。
「伏せろ!」
エイリクが駆け込んだ。
横倒しになった木箱の角へ片足を掛け、そのまま身体を跳ね上げる。騎士団で教わるような整った踏み込みではない。振り下ろした斧の腹が、飛び掛かろうとしていた魔獣の頭部を横から殴りつけた。
鈍い音が響く。
魔獣が地面を転がった。
エイリクはそのまま荷車と護衛の間へ入り、斧を構えた。
「動ける奴は荷車の後ろへ回れ!」
護衛が負傷した仲間へ肩を貸す。
残る魔獣たちが散った。
逃げたのではない。
エイリクを避けるように左右へ広がっている。
「来るわ」
エルセリアが杖を向けた。
右側から二体。
左から一体。
同時だった。
光が走る。
先頭の一体が地面を蹴った瞬間、その足元で白い光が弾けた。魔獣が体勢を崩し、草地を滑る。
もう一体は止まらない。
エイリクへ向かうと見せて、途中で進路を変えた。
荷車の裏へ回ろうとしている。
シグは剣へ手を掛けた。
抜いた。
そこまではできた。
魔獣が走る。
身体は細い。あの日対峙したセグラヴァスとは比べものにならない。
倒せる。
そう分かっている。
踏み込めばいい。
間合いへ入った瞬間、首か前脚を狙う。
何度も教わった。
それなのに、足が出ない。
右腕が熱を持った気がした。
――もし、また。
「シグ!」
エルセリアの声。
魔獣が目の前にいた。
反応が遅れた。
牙が迫る。
横から斧の柄が突き出された。
魔獣の脇腹を打ち、軌道を逸らす。
「戦うなら周りを見ろ!」
エイリクだった。
「悪い!」
謝りながら剣を構え直す。
その間にも、別の一体が動いていた。
二体の視線がシグへ向く。
一体が正面から唸り、もう一体が左へ回る。
狙われている。
それでも剣を握る手に力が入らない。
正面の一体が飛び掛かった。
シグは反射的に横へ退いた。
剣は振らない。
牙を避けるだけ。
着地した魔獣が振り向く。
その瞬間、左へ回っていた個体が走った。
シグではない。
荷車の向こうだった。
「――っ!」
そこに、一人取り残されていた。
横倒しになった荷車から少し離れた場所で、若い商人が倒れている。散乱した木箱と布袋に足を挟まれ、動けずにいた。
ハリアージャッカルは負傷者へ向かう。
エルセリアは反対側の二体を押さえている。
エイリクの前にも一体。
一番近いのはシグだった。
逃げられる。
魔獣の狙いは自分ではない。
朝は、剣を振り抜けなかった。
今も怖い。
それでも、シグは走った。
「こっちだ!」
魔獣が振り向く。
商人へ飛び掛かる直前、その進路へ身体を滑り込ませた。
剣を両手で構える。
右腕は熱い。
紋章が暴れるかもしれない。
それでも今、剣を止めれば後ろの男が死ぬ。
魔獣が地面を蹴った。
速い。
だが、直線だ。
シグは逃げなかった。
半歩だけ左へずれる。
牙が肩を狙って伸びる。
剣を斜めに合わせた。力で受け止めず、刃の腹で頭を外へ流す。トーマスに何度も叩き込まれた受け方だった。
魔獣の身体が横を抜けた。
シグは振り向く。
着地と同時に、四肢が沈む。
次に跳ぶための動き。
見える。
今度は迷わず、踏み込んだ。
魔獣が跳ぶより早く間合いを潰す。
剣を振る。
刃が首筋へ入り、肉を断つ感触が両手へ伝わる。
魔獣は二歩ほど進み、崩れ落ちた。
剣から一滴、二滴と血が落ちる。
右腕を見るが、黒い紋様は広がっていない。
地面も消えていない。
後ろから、荒い呼吸が聞こえた。
助けた商人が生きている。
何も起きなかった。
自分が剣を振った。
ただ、それだけだった。
「シグ、右!」
エイリクの声が飛ぶ。
考えるより先に振り向いた。
別の一体が迫っている。
今度は足が止まらなかった。
飛び掛ってきたハリアージャッカルを剣で逸らす。
着地した魔獣へ追撃しようとして、一瞬だけ迷う。
そこへエイリクが入った。
斧が地面すれすれを走り、魔獣の前脚を薙ぐ。
体勢が崩れた。
「今だ!」
シグは踏み込み、剣を突き入れた。
短い断末魔。
魔獣が動かなくなる。
残った個体が距離を取った。
エルセリアの光を避け、さらに後退する。
一体が低く鳴いた。
それを合図にしたように、二体が草原へ走り出す。
「追うな」
エイリクが言った。
シグは剣を下ろした。
追う必要はない。
魔獣たちは何度か振り返りながら疎林の向こうへ消えていった。
街道に静けさが戻る。草原を渡る風が、血の匂いを薄く運んでいく。
荒い呼吸だけが耳に残った。
シグは自分の剣を見る。
刃には魔獣の血が付いている。
右腕を見る。
《ヴォイド・コード》は今も沈黙していた。
次も同じとは限らない。
また恐怖に反応するかもしれない。
何も分かっていないことは変わらない。
それでも、自分にはこれがある。
トーマスに教わり、何度も振り、準騎士になるまで積み上げてきたもの。
シグは剣についた血を払い落とした。
鞘へ収める。
今度は、手が震えていなかった。




