第三話:それでも、この手で/第二幕:守るためなら
昼前には、サヴァールを出るための荷物が宿の一階に並び始めていた。
保存の利く食料、飲み水、包帯、火口箱。足りないものを書き出した紙を見ながら、エイリクが一つずつ確認していく。
「干し肉はもう少し要るな」
「昨日買っただろ?」
シグが言うと、エイリクは袋を持ち上げた。
「三人で何日食うつもりだ?」
「……足りないのか」
「足りん。あと、馬の餌もだ」
騎士団にいた頃、遠征の準備を自分でしたことはほとんどなかった。武器や防具は各自で手入れするが、食料や馬糧、野営道具は必要な量が用意され、それを受け取っていた。
エイリクは違うらしい。
市場へ出ると、干し肉の状態を確かめ、店主の言い値を聞いて顔をしかめた。
「昨日より高いぞ」
「街道が荒れてんだ。仕入れ値も上がってる」
「昨日の昼に荷が入ったばかりだろ」
「よく知ってるな……」
「だから昨日と同じ値段にしろ」
横で聞いていたシグは、思わずエルセリアを見た。
「いつもあんな感じなのか?」
「もっと酷い時もあるわよ」
聞こえていたらしく、エイリクが振り返る。
「旅費を食い潰す奴に言われたくねえな」
「必要なものしか買ってないでしょう」
「必要かどうかの基準がおかしいんだよ」
二人のやり取りを聞きながら、シグは周囲へ目を向けた。
数日前には、武器を持った人間ばかりが目についた。
今は少し違う。
送金を扱う両替商の前で、傭兵らしい大柄な男が泥に汚れた小袋を大切そうに差し出している。隣の工房では、片腕を吊った女の代わりに仲間が潰れた肩当てを抱え、職人へ修理箇所を説明していた。
傭兵ギルドの掲示板の前では、若い男が依頼書を何度も見比べている。
戦うことも、彼らにとっては暮らしの一部なのだ。
それが正しいのかどうかは、まだシグには分からない。
ただ、「金で戦う」という一言だけで片づけられるものでもない気がしていた。
「シグ」
呼ばれて顔を上げる。
エイリクが小さな革袋を投げてきた。受け取ると、金属同士がぶつかる音がする。
「何これ」
「予備の留め金と針だ。持っとけ」
「俺が?」
「俺が全部持ったら、俺が落とした時に全部なくなるだろ」
言われてみればその通りだった。
シグは革袋を自分の荷物へしまった。
その時、甲高い馬の嘶きが響いた。
振り向く。
荷を満載した馬車が通りの途中で大きく傾いていた。
馬が前脚を跳ね上げ、御者が必死に手綱を引いている。荷台を縛っていた縄の一本が外れ、積まれていた木箱が崩れ始めていた。
「離れろ!」
誰かが叫ぶ。
一つ目の箱が石畳へ落ちた。
その音に驚いた馬がさらに暴れる。
馬車のすぐ先に、小さな女の子が立っていた。
足元には、落とした果物がある。
何が起きているのか分からないのか、その場から動かない。
シグは走っていた。
腰の剣には触れなかった。
馬車と子供の間へ飛び込み、その身体を抱える。直後、馬の前脚がシグの肩先を掠めた。
「っ!」
子供を抱いたまま石畳を転がる。
背中に痛みが走り、鼻腔を馬の汗と埃の匂いが突いた。そのすぐ横を車輪が通り過ぎる。
エイリクが馬の進行方向へ回り込み、御者と二人で手綱を引いた。近くにいた傭兵たちも散らばった荷を蹴り退け、馬車の進路を空けていく。エルセリアは崩れた木箱を避けながら、巻き込まれそうになった人々を通りの端へ下がらせている。
やがて馬の動きが止まった。
「大丈夫か?」
シグが腕の中を見る。
女の子は目を丸くしていたが、怪我はなさそうだった。
「う、うん……」
駆け寄ってきた母親らしい女性が、何度も頭を下げながら子供を抱き取った。
シグは立ち上がり、服についた埃を払う。
肩が少し痛む。
だが、それだけだ。
そこで初めて気づいた。
何も迷わなかった。
子供が危ないと分かった瞬間には、もう身体が動いていた。
右腕を見る。
何も起きていない。
剣すら抜いていなかった。
それでも、胸の奥に引っ掛かっていたものの輪郭が、少しだけ見えた気がした。
誰かを助けることが怖いわけではない。
守りたくなくなったわけでもない。
怖いのは、そのために剣を抜いた先だ。
「怪我は?」
エルセリアが尋ねた。
「大丈夫」
「なら行きましょう。まだ買うものがある」
エルセリアはそれ以上何も言わなかった。
エイリクも馬車の御者に手綱を返すと、そのまま歩き出した。
シグは二人の後を追う。
◇
昼を過ぎた頃、三人は街道の状況を確かめるため、南門近くまで来ていた。
門の周囲には出入りを待つ荷車が並び、旅人や商人が行き交っている。
そこで急に、門の外が騒がしくなった。
「道を空けろ!」
衛兵の声が飛ぶ。
人垣が割れ、その間から一頭の馬が入ってきた。
乗っていた男は泥まみれだった。馬も泡を吹き、脇腹が激しく上下している。
男は地面へ降りるなり、近くの衛兵へ駆け寄った。
「南東の街道だ! 魔獣が出た!」
周囲がざわめく。
「数は?」
「分からん! 護衛が残って食い止めてる。荷車が二台、まだ向こうだ!」
エイリクの顔つきが変わった。
「場所は?」
男が振り向く。
「街道沿いの古い石橋だ。ここからなら走って――」
最後まで聞かず、エイリクは門へ向かった。
エルセリアもすぐに続く。
シグの右手が反射的に腰へ伸びた。
指先が剣の柄に触れる。
朝、振り抜けなかった感覚が戻った。
足が止まる。
街道には、まだ人が残っている。
分かっている。
それでも、この剣を抜いた先で自分がどうなるのかは分からない。
「シグ!」
エイリクの声が飛んだ。
二人はすでに門へ向かっている。
シグは柄から手を離した。
一瞬だけ右腕を見て、それから走り出す。
今はまだ、剣を抜けるかどうか分からない。
それでも、二人の後を追うことだけはできた。




