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【第一章完結】Chronicle ーエルディア・バース戦記ー  作者: kissaki / 切っ先
第二章:「追われる少年」

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第三話:それでも、この手で/第一幕:振り抜けない理由

 トーマスと別れた翌朝、シグは宿の裏庭にいた。


 表通りほど人の気配はなく、低い石壁の向こうを荷車が通るたび、車輪の軋む音が近づいては遠ざかっていく。朝の空気にはまだ冷たさが残っていたが、握りしめた剣の柄にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。


 昨夜はほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたび、トーマスの言葉が浮かんだ。


『お前の中にあるものまで安全だとは言えない』


 責められたわけではない。


 むしろ、トーマスはシグを信じていた。そのうえで《ヴォイド・コード》だけは別だと言った。


 だからこそ、残った。


 シグは息を整え、剣を構え直した。


 前へ出る。


 踏み込み。


 斬り下ろし。


 身体は覚えている。肩の入り方も、足の運びも、刃筋も狂ってはいない。


 次の型へ移る。


 受け。


 返し。


 一歩詰めて、横薙ぎ。


 そこで剣が止まった。


 振り抜かれるはずだった刃先が空中で震え、朝日を受けた刀身の光だけが細かく揺れた。


 右腕の奥に、ありもしない「熱」を感じる。


「……っ」


 シグは剣を下ろした。


 呼吸が浅い。


 石壁の向こうを荷車が通り過ぎ、車輪の音が遠ざかっていく。何も起きていない。


 右腕の紋章も沈黙したままだった。


 それでも、もう一度振り抜く気にはなれなかった。


「随分、慎重になったな」


 背後から声がした。


 振り返ると、エイリクが石壁に肩を預けていた。


 朝日から半分外れた場所で腕を組んでいる。いつから見ていたのか分からない。


「見てたのか」


「途中からな」


 シグは剣先を下げたまま言う。


「別に、身体が動かないわけじゃない」


「分かってる」


 エイリクは壁から離れた。


「動きは悪くない。止めてるのはお前だ」


 図星だった。


「……また出るかもしれない」


「何が」


「《ヴォイド・コード》」


 エイリクは黙って聞いている。


 シグは右腕を見る。


「戦って、追い詰められて、怖くなって……それでまた勝手に動いたらどうするんだ。前だって、使おうと思ったわけじゃない。剣だけで戦うつもりでも、関係ないのかもしれない」


「分からないのか?」


「ああ」


「なら、俺にも分からん」


 あっさりした答えだった。


 シグが顔を上げる。


「エルセリアにも聞いた。発動条件はまだ断定できないって」


「なら、怖がる理由はあるな」


 励ます気配はなかった。


「怖くないって言えよ」


「嘘ついてどうする」


 エイリクはシグの剣を見る。


「怖いなら怖いでいい。怖くないふりして振る方がよっぽど危ない」


「でも、このままじゃ何かあった時に戦えない」


 エイリクの視線がシグの右手へ落ちる。


「戦えないんじゃない。戦う前から、自分で自分を止めてるだけだ」


 その言葉が胸に残った。


 反論できない。


 エイリクはそれ以上何も言わず、宿の方へ戻っていった。


 入れ替わるように、裏口からエルセリアが姿を見せた。手には水の入った革袋を持っている。


「続けるの?」


 シグは剣を見た。


「……分からない」


 エルセリアは近づいてきたが、剣にも右腕にも触れなかった。


「無理に答えを出す必要はないわ」


「でも、いつまでもこうしてるわけにはいかないだろ」


「そうね。でも今、《ヴォイド・コード》が反応していないこと以外、私たちにはまだ何も分からない」


 シグは水を受け取り、一口だけ飲んだ。


 冷たい水が乾いた喉を通り、少しだけ頭が冴えた。


「今日の準備が終わったら、街の外へ出る予定よ」


「何しに?」


「周辺を見ておきたいの。長くここに留まるわけにもいかないでしょう」


 シグは頷いた。


 王国側が自分の名前まで把握している以上、サヴァールへ長く留まるのは危険だった。


 出発するなら準備がいる。


 考えることはいくらでもある。


 それでも、足元に置いた剣から意識が離れなかった。


 エルセリアが宿へ戻ると、裏庭には再び荷車の音と朝の冷気だけが残った。


 シグはもう一度、剣の柄を握った。


 構える。


 一歩踏み込む。


 剣を振り上げる。


 今度こそ最後まで。


 そう思った瞬間、右腕の奥で何かが微かに脈打った気がした。


 シグの動きが止まる。


 実際に紋章が反応したのか、それとも恐怖がそう感じさせただけなのか。


 分からない。


 剣先をゆっくり下ろした。


 そのまま鞘へ戻す。


 刃が鞘の内側を擦る乾いた音が、人気のない裏庭にやけに大きく響いた。


 剣はずっと、自分に残っていたものだった。


 魔力がなくても。


 紋章がなくても。


 騎士になれるか分からなくても。


 それだけは、偽りなく手に握っていられた。


 今は、その剣さえ迷わず振ることができない。


 シグは右腕を見た。


 袖の下で、黒い紋章は何もしていない。


 だからこそ、次にいつ動くのか分からなかった。

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