第三話:それでも、この手で/第一幕:振り抜けない理由
トーマスと別れた翌朝、シグは宿の裏庭にいた。
表通りほど人の気配はなく、低い石壁の向こうを荷車が通るたび、車輪の軋む音が近づいては遠ざかっていく。朝の空気にはまだ冷たさが残っていたが、握りしめた剣の柄にはじっとりと嫌な汗が滲んでいた。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、トーマスの言葉が浮かんだ。
『お前の中にあるものまで安全だとは言えない』
責められたわけではない。
むしろ、トーマスはシグを信じていた。そのうえで《ヴォイド・コード》だけは別だと言った。
だからこそ、残った。
シグは息を整え、剣を構え直した。
前へ出る。
踏み込み。
斬り下ろし。
身体は覚えている。肩の入り方も、足の運びも、刃筋も狂ってはいない。
次の型へ移る。
受け。
返し。
一歩詰めて、横薙ぎ。
そこで剣が止まった。
振り抜かれるはずだった刃先が空中で震え、朝日を受けた刀身の光だけが細かく揺れた。
右腕の奥に、ありもしない「熱」を感じる。
「……っ」
シグは剣を下ろした。
呼吸が浅い。
石壁の向こうを荷車が通り過ぎ、車輪の音が遠ざかっていく。何も起きていない。
右腕の紋章も沈黙したままだった。
それでも、もう一度振り抜く気にはなれなかった。
「随分、慎重になったな」
背後から声がした。
振り返ると、エイリクが石壁に肩を預けていた。
朝日から半分外れた場所で腕を組んでいる。いつから見ていたのか分からない。
「見てたのか」
「途中からな」
シグは剣先を下げたまま言う。
「別に、身体が動かないわけじゃない」
「分かってる」
エイリクは壁から離れた。
「動きは悪くない。止めてるのはお前だ」
図星だった。
「……また出るかもしれない」
「何が」
「《ヴォイド・コード》」
エイリクは黙って聞いている。
シグは右腕を見る。
「戦って、追い詰められて、怖くなって……それでまた勝手に動いたらどうするんだ。前だって、使おうと思ったわけじゃない。剣だけで戦うつもりでも、関係ないのかもしれない」
「分からないのか?」
「ああ」
「なら、俺にも分からん」
あっさりした答えだった。
シグが顔を上げる。
「エルセリアにも聞いた。発動条件はまだ断定できないって」
「なら、怖がる理由はあるな」
励ます気配はなかった。
「怖くないって言えよ」
「嘘ついてどうする」
エイリクはシグの剣を見る。
「怖いなら怖いでいい。怖くないふりして振る方がよっぽど危ない」
「でも、このままじゃ何かあった時に戦えない」
エイリクの視線がシグの右手へ落ちる。
「戦えないんじゃない。戦う前から、自分で自分を止めてるだけだ」
その言葉が胸に残った。
反論できない。
エイリクはそれ以上何も言わず、宿の方へ戻っていった。
入れ替わるように、裏口からエルセリアが姿を見せた。手には水の入った革袋を持っている。
「続けるの?」
シグは剣を見た。
「……分からない」
エルセリアは近づいてきたが、剣にも右腕にも触れなかった。
「無理に答えを出す必要はないわ」
「でも、いつまでもこうしてるわけにはいかないだろ」
「そうね。でも今、《ヴォイド・コード》が反応していないこと以外、私たちにはまだ何も分からない」
シグは水を受け取り、一口だけ飲んだ。
冷たい水が乾いた喉を通り、少しだけ頭が冴えた。
「今日の準備が終わったら、街の外へ出る予定よ」
「何しに?」
「周辺を見ておきたいの。長くここに留まるわけにもいかないでしょう」
シグは頷いた。
王国側が自分の名前まで把握している以上、サヴァールへ長く留まるのは危険だった。
出発するなら準備がいる。
考えることはいくらでもある。
それでも、足元に置いた剣から意識が離れなかった。
エルセリアが宿へ戻ると、裏庭には再び荷車の音と朝の冷気だけが残った。
シグはもう一度、剣の柄を握った。
構える。
一歩踏み込む。
剣を振り上げる。
今度こそ最後まで。
そう思った瞬間、右腕の奥で何かが微かに脈打った気がした。
シグの動きが止まる。
実際に紋章が反応したのか、それとも恐怖がそう感じさせただけなのか。
分からない。
剣先をゆっくり下ろした。
そのまま鞘へ戻す。
刃が鞘の内側を擦る乾いた音が、人気のない裏庭にやけに大きく響いた。
剣はずっと、自分に残っていたものだった。
魔力がなくても。
紋章がなくても。
騎士になれるか分からなくても。
それだけは、偽りなく手に握っていられた。
今は、その剣さえ迷わず振ることができない。
シグは右腕を見た。
袖の下で、黒い紋章は何もしていない。
だからこそ、次にいつ動くのか分からなかった。




