第二話:追われる少年/第四幕:今は戻るな
物置の外から、人の気配が完全に消えた。
トーマスは戸を僅かに開け、路地の左右を確認してからシグへ手招きした。
「ここじゃ落ち着いて話せない。来い」
二人は裏道を抜け、使われていない倉庫の裏手へ移った。積み上げられた木箱が通りからの視線を遮り、近くには荷車の車輪が石畳を鳴らす音だけが聞こえている。
そこでようやく、シグはトーマスを正面から見た。
「本当に……生きてたんですね」
「勝手に殺すな」
いつもの調子だった。
それだけで、張りつめていたものが少し緩んだ。
「だって、あの時……」
黒い魔獣に吹き飛ばされたトーマスの姿が蘇る。動かなくなった身体を見て、それからどうなったのかも分からないままシイバを離れた。
「悪かったな。心配かけた」
トーマスは笑ったが、顔色はよくない。外套の下から覗く身体の動きも、以前より明らかに硬かった。
「傷、まだ治ってないんですか?」
「お前に心配されるほどじゃない」
「でも――」
「それよりお前だ」
トーマスの目がシグの右腕へ向いた。
「身体は?」
シグも自分の腕を見る。
「動きます。傷も、ほとんど」
「そういう意味じゃない」
何を聞かれているのか分かった。
服の下にある黒い紋章が、急に存在感を増した気がした。
「……まだ、分かりません」
「そうか」
トーマスはそれ以上追及しなかった。
その短いやり取りだけは、以前と変わらなかった。訓練で失敗した時も、シグが自分から話すまで無理に聞き出そうとはしなかった。
だが、今はもう訓練場ではない。
「隊長」
シグは声を落とした。
「王国が、俺を探してるって聞きました」
トーマスの表情から笑みが消えた。
「……そこまで知ってたか」
「今日、調べました。俺の名前まで伝わってるって。でも、何のために探してるのかまでは分からなかった」
一度言葉を切る。
「俺、何を疑われてるんですか?」
トーマスはすぐには答えなかった。
遠くで鐘が鳴った。人の声と荷車の音が重なり、ここから何歩か外へ出れば、何も知らない人間たちが普通に行き交っている。
「俺も、事件の後に王国から事情を聞かれた」
シグの顔が強張った。
「隊長も?」
「ああ」
「俺のことも……話したんですか?」
「ああ」
胸の奥に、小さく冷たいものが落ちた。
それを見たのか、トーマスは続けた。
「ただし、俺が話したのは自分で見たことだけだ。お前がシイバにいたこと。魔力を持たない準騎士だったこと。あの魔獣が襲ってきた時、お前が住民を守ろうとして戦っていたこと。そこまでだ」
「紋章のことは?」
「俺は見てない。覚えてるだろ。途中でぶっ倒れてたからな」
シグは黙った。
「お前に紋章が発現したことも、その後に妙な現象が起きたことも、俺は後から聞いた。だから、俺は知らないことを知らないと言った。お前が魔獣を呼んだとも、村を壊したとも、帝国兵をわざと殺したとも言ってない」
トーマスの声に迷いはなかった。
「だが、見たことまで隠すつもりもなかった」
シグはゆっくり息を吐いた。
騎士なら当然だ。
トーマスがそこで嘘をつけば、今度は彼自身が責任を問われる。それ以前に、この人が自分の都合で報告を曲げるような騎士ではないことを、シグは知っていた。
「……分かってます」
「そう言ってくれると助かる」
トーマスは木箱へ軽く腰を預けた。
「問題は、その後だ。王国は俺以外からも話を集めた。現場も調べてる。王国が何を問題にしてるか、お前なら分かるな?」
シグの喉が詰まる。
「王国は、お前がシイバを壊した犯人だと決めたわけじゃない」
トーマスははっきりと言った。
「だが、何が起きたのか分からない。分からないまま放っておくこともできない。だから、お前を見つけたら身柄を確保することになってる。事情を聞いて、発現した紋章を調べる。その安全が確認できるまでは自由にはさせない」
身柄を確保する。
その言葉の意味は、準騎士だったシグにも分かった。
「だったら」
考えるより先に口から出た。
「俺から戻って、全部話します。魔獣が現れた時のことも、帝国兵のことも。紋章のことも。俺が分かってることなら全部……隠さずに話して、疑いを晴らします」
「シグ」
「俺は逃げたいわけじゃないんです。俺は――」
「今は戻るな」
声は強くなかった。
それでも、シグの言葉を止めるには十分だった。
「……どうしてですか」
「戻れば、まず拘束される」
「それは分かってます」
「分かってない」
トーマスはシグの右腕を見た。
「手枷をはめられた時、お前はそいつを完全に制御できるのか?」
シグの呼吸が止まった。
「王国だって、その紋章が何なのか知らない。どうすれば封じられるのかも分からない。お前自身はどうだ?」
答えられない。
「もし牢へ入れられたら。何人もの騎士に囲まれて、身動きを封じられたら」
帝国兵に囲まれた森が蘇る。
白い拘束術式。
身体を押さえつける力。
そして、黒。
「……また、出るかもしれない」
ようやく、それだけ言った。
「ああ」
トーマスは否定しなかった。
「俺はお前を知ってる。理由もなく誰かを殺す奴じゃない。シイバでだって最後まで人を守ろうとしてた」
一歩、シグへ近づく。
「でもな、お前の中にあるものまで安全だとは言えない」
痛かった。
だが、腹は立たなかった。
自分自身が、一番そう思っている。
「だから、今のお前を王国へ帰すわけにはいかない。お前のためだけじゃない。王国の人間を巻き込まないためにもな」
シグは右腕を左手で押さえた。
「じゃあ……隊長は、どうして俺を助けたんですか?」
トーマスは少し困ったように頭を掻いた。
「お前なら、探されてると知ったら自分から出ていくと思ったからだよ」
言い返せなかった。
「俺は王国の騎士だ。責任まで捨てたつもりはない。だが、何も知らないままお前が捕まるのを黙って見てるのも違うと思った」
「それで、ここまで?」
「怪我人は暇なんだよ」
シグは思わず笑いそうになった。
その時、路地の入口から足音がした。
トーマスが即座に振り向く。
「シグ」
聞こえたのはエルセリアの声だった。
続いてエイリクが姿を見せる。
「いたか」
シグの姿を確認すると、エイリクは短く息を吐いた。
「悪い。撒くのに少しかかった」
「怪我は?」
「ない」
エイリクは頷き、次にトーマスを見る。
「で、そっちは?」
「トーマス・フィッシャー隊長。俺が西方軍にいた時の教官だ」
「王国騎士か」
空気が僅かに変わる。
「今はシグを捕まえに来たわけじゃない」
トーマスが先に言った。
エルセリアはシグを見る。
シグが頷くと、彼女はそれ以上問い詰めなかった。
トーマスは三人を順に見た。
「一人じゃなかったんだな」
「……はい」
「なら、少しは安心した」
やがてトーマスは壁から身体を離した。
「俺はもう行く」
「隊長」
シグは呼び止めた。
聞きたいことはいくらでもあった。
シイバのこと。生き残った人たちのこと。王国のこと。
だが、一番先に出たのは別の言葉だった。
「俺、これからどうすればいいんですか」
トーマスはしばらく黙っていた。
「それは俺が決めることじゃない」
そして、シグの右腕へ一度だけ目を向ける。
「ただ、一つだけ言える」
トーマスはシグをまっすぐ見た。
「今は戻るな」
それだけ告げて、背を向けた。
人通りのある街路へ出ると、トーマスの姿はすぐに行き交う人々へ紛れていく。
シグはその背中を見送った。
王国騎士団の騎士。
自分に剣を教え、騎士になる道を開いてくれた人。
いつか自分も、あの人と同じ場所に立ちたいと思っていた。
帰ってくるな、と言われたわけではない。
それでも今は帰れない。
トーマスの背中が、人混みの向こうへ消えた。
シグはしばらく、その場所から動けなかった。
やがて隣に人の気配を感じる。
エルセリアとエイリクがいた。
シグは二人を見て、それからトーマスが消えた街路へもう一度目を向けた。
シイバには、もう帰れない。
そして今は、王国にも帰れない。
その事実が、ようやく胸の奥へ沈んでいった




