第二話:追われる少年/第三幕:抜けない剣
昼を過ぎたサヴァールの大通りは、朝よりも人が増えていた。
シグはエルセリア、エイリクと並んで通りを歩いていた。午前中に得られた情報は多くない。王国が自分を探している。その事実だけが、歩いている間も頭から離れなかった。
「おい、そこの坊主」
呼び止められたのは、三人が市場へ続く通りへ入った時だった。
シグは反射的に振り向いた。
荷運び用の馬車の脇に、革鎧を着た男が立っている。腰に片手剣を下げた、四十前後の傭兵だった。
男はシグの顔を見た後、腰の剣へ視線を落とした。
「お前、リューンの人間か?」
胸の奥が強張る。
「……どうして?」
「その剣だよ。王国の鍛冶場でよく見る造りだ」
男の目が細くなった。
「名前は?」
シグは答えられなかった。
ほんの一瞬だった。
だが、その沈黙で十分だったらしい。
男の視線が右腕へ落ちる。
「袖、上げてみろ」
エルセリアがシグの前へ出た。
「どういう理由で?」
「ちょっと確かめたいだけだ。王国が探してる奴がいるって話が、こっちにも回ってきてる。十七、八くらいの黒髪の男。剣を持ってて、右腕に――」
「噂だけで通行人の服を脱がせるのが、サヴァールの流儀なの?」
男が顔をしかめる。
「見つけて報告すりゃ、礼くらい出るかもしれんだろうが。本人に名前を言わせりゃ済む話だ」
声が大きかった。
それがまずかった。
近くを歩いていた二人が足を止めた。
「何だ?」
「例の王国が探してる奴じゃないかってさ」
さらに一人。
酒場の入口にいた男までこちらを見る。
シグは自分へ集まり始めた視線を感じた。
これまで耳にした噂が頭をよぎる。
若い男。
黒い力。
右腕の黒い紋章。
知らない間に作られた人物像が、今、目の前の自分と結びつこうとしている。
「王国が探してるって、あのシイバの?」
「捕まえて渡せば金になるんじゃないか?」
「懸賞が出たなんて話は聞いてねえぞ」
「でも、ただの行方不明者をわざわざ国外まで探すか?」
声が重なっていく。
エイリクが前へ出た。
「そこまでにしとけ」
大声ではなかった。
それでも、最初にシグを呼び止めた男が口を閉じた。
エイリクは男たちの顔を順に見た。
「王国から正式な捕縛依頼でも受けたのか?」
「いや」
「懸賞金は?」
「……知らねえ」
「罪状は?」
男は答えない。
「何も知らんのに捕まえて、違いましたで済むと思ってるなら好きにしろ。ただし、そいつが本当に王国の人間だった場合、今度はお前らが説明する番だぞ」
ざわめきが少し弱まった。
シグはエイリクの横顔を見る。
彼は誰か一人を睨みつけているわけではなかった。周囲へ目を配り、集まった男たちの手元まで見ている。何人かは、すでに腰の武器へ手を近づけていた。
「だったら確認するだけだ」
人垣の右側から、別の男が出てきた。
「腕を見せれば済む話だろ」
シグへ手を伸ばす。
その手が届くより早く、エイリクが間へ入った。
「触るな」
「邪魔するなら――」
男の右手が剣の柄へ動いた。
次の瞬間、エイリクも動いた。
抜かせなかった。
鞘から刀身が指二本分ほど覗いたところで、エイリクの左手が男の手首を押さえる。同時に一歩踏み込み、肩をぶつけた。
男の上体が崩れた。
そこへ足を掛ける。
石畳へ背中から叩きつけられた男が息を詰まらせた時には、エイリクはもう離れていた。
「次」
短く言った。
左から剣が抜かれる。
エイリクは半身になった。
横薙ぎの刃が胸元を通過する。
かわした直後、腰の短刀を抜く。
金属音が一度だけ鳴った。
エイリクの短刀が相手の刀身を下から打ち上げる。握りが浮いた瞬間、柄頭を男の胸へ叩き込んだ。
男がよろめく。
追撃しない。
代わりに、その位置へエイリク自身が入った。
背後は露店の荷車。正面から来られる道を二人に絞る位置関係だった。
シグはそこで気づいた。
最初から、ここへ移動するために二人を崩したのだ。
「おい」
エイリクは前を見たままシグを呼んだ。
「走れ」
「でも――」
「お前がいるから集まる。消えりゃ終わる」
エルセリアもすぐに理解した。
「南へ二本。そこから西」
「一人で?」
「私たちは後から行く」
別の傭兵が回り込もうとする。
エイリクが短刀の切っ先を向けただけで、その足が止まった。
「行け!」
シグは走った。
◇
人混みへ飛び込み、最初の角を曲がった。
二本目。
そこから西。
エルセリアに言われた通り進む。
大通りの喧騒が遠ざかり、建物の間隔が狭くなった。洗濯物を渡した縄の下を潜り、積まれた木箱を避ける。
後ろから足音がした。
一人ではない。
シグは振り返らない。
朝歩いた時に見た街並みを必死に思い出す。
この先を抜ければ鍛冶場の裏へ出る。
そのはずだった。
角を曲がる。
行き止まりではない。
だが、道の先から二人の男が現れた。
「いたぞ!」
シグは足を止めた。
後ろからも三人。
挟まれた。
息を整えながら周囲を見る。
左は石壁。右側には木箱と樽が積まれている。登れなくはないが、その前に追いつかれる。
前の男が剣を抜いた。
「大人しくしろ。名前を確認するだけだ」
嘘ではないのかもしれない。
それでも、捕まるわけにはいかなかった。
シグの右手が剣の柄へ伸びる。
五人。
戦える。
相手の立ち方を見れば分かる。正面の二人はともかく、後ろの三人は連携して動くことに慣れていない。
最初の一人を崩して、壁際へ寄る。
そこから――
指が止まった。
あの黒が、脳裏に蘇った。
帝国兵の身体が崩れていく。
何も残さず、黒の中へ消えていく。
息が浅くなった。
違う。
今は紋章を使うつもりなどない。
剣だけでいい。
そう分かっているのに、自分の内にある魔力を意識した途端、右腕が熱を持った気がした。
もし、また出たら。
目の前にいるのは魔獣ではない。
人間だ。
「剣から手を離せ」
男が近づく。
シグは動けなかった。
戦えばいい。
殺さずに倒す方法なら、騎士団で何度も習った。
だが、あの時も自分は殺そうと思っていなかった。
それでも死んだ。
「聞こえなかったか?」
あと三歩。
シグは剣の柄を握った。
抜けない。
二歩。
男の手が伸びる。
その瞬間、横から別の手がシグの腕を掴んだ。
「――っ!」
身体が反応する。
シグは腕を振りほどこうとして、相手の顔を見た。
「こっちだ」
聞き覚えのある声だった。
考える暇もなく引かれる。
建物と石壁の間。
人一人がようやく通れる隙間へ身体を滑り込ませる。
「待て!」
追手の声。
シグを引いた男は振り返らない。
「走れ」
細い通路を抜け、裏庭を横切る。
積み上げられた薪の脇を抜けると、男は古びた建物の戸を開けた。
中へシグを押し込み、自分も入る。
「声を出すな」
戸が閉じた。
薄暗い。
物置らしく、乾いた木材と埃の臭いがした。
外から足音が近づいてくる。
「どこ行った?」
「こっちじゃないのか?」
「表へ回れ!」
足音が戸のすぐ前を通過した。
シグは息を殺した。
男も動かない。
やがて声が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、男がようやく戸から離れた。
「もう大丈夫だ」
シグはその横顔を見た。
見間違えるはずがなかった。
栗色の髪を後ろへ撫でつけている。もみあげから顎へ続く髭。少し痩せ、顔にはまだ疲労が残っていたが、その優しげな目も覚えている。
シイバで黒い魔獣に倒されてから、生きているのかさえ分からなかった。
「……トーマス隊長?」
トーマスはシグを見た。
「久しぶりだな、シグ」




