第二話:追われる少年/第二幕:トーマスの報告
トーマス・フィッシャーが意識を取り戻した時、最初に感じたのは胸の痛みだった。
息を吸うだけで肋骨の奥が軋み、右肩から脇腹にかけて厚く巻かれた包帯が身体を締めつけている。鼻につく薬草の匂いと白い天井を見て、ここがシイバではないことを理解するまでに少し時間がかかった。
身体を起こそうとして、すぐに寝台へ戻される。
「まだ動かないでください。傷が開きます」
傍らにいた治療師の声を無視して、トーマスは掠れた声を出した。
「シイバは」
「今はご自分の――」
「シイバはどうなった」
治療師が口を閉ざした。その反応だけで、聞きたくない答えが返ってくると分かった。
救援部隊が到着した時には、村の広い範囲が壊滅していた。住民にも西方軍にも多数の死者が出ており、正確な人数はまだ確認中。生存者は周辺へ避難させられ、負傷者は各地の治療施設へ運ばれているという。
「俺の隊は?」
治療師の返事が遅れた。
「……何人かは、生きています」
その言葉の意味を、トーマスは聞き返さなかった。
「……シグ・フリューゲンは?」
治療師は首を横へ振った。
「生存者の中には確認されていません。遺体も見つかっていないそうです」
胸の痛みとは別のものが、腹の底へ沈んだ。
生きているとも、死んでいるとも分からない。
トーマスの記憶は、黒い魔獣との戦いの途中で途切れている。
最後に覚えているのは、あの怪物を前に、それでも剣を握っていたシグの姿だった。
◇
王国から事情を聞かれたのは、それから数日後だった。
まだ一人で長く歩くこともできず、トーマスは治療施設の一室で二人の調査官と向かい合った。
質問は細かかった。
魔獣が現れる前に異変はあったか。襲撃はどこから始まったか。王国騎士団はどう対応したか。魔獣はどのような能力を持っていたか。
トーマスは覚えている限りを答えた。
「戦闘の途中から記憶が無いそうですね」
「ああ。あの魔獣にやられて意識を失った。そこから先は何も見ていない」
「シグ・フリューゲンについて、最後に確認した時の状態は?」
「生きていた。少なくとも俺が意識を失う前まではな」
「当時、彼に紋章は?」
「ない」
トーマスは即答した。
「魔力もない。何度調べても同じだった。それは西方軍にも記録が残っているはずだ」
調査官の一人が手元の書類へ目を落とす。
「では、その後については?」
「知らん」
「彼に未知の紋章が発現したという証言があります」
トーマスの眉が動いた。
事情聴取が始まる前にも概要だけは聞かされていた。しかし、改めて言葉にされても、すぐには実感が湧かなかった。
「俺は見ていない」
「シグ・フリューゲンの周囲で、通常の魔法とは異なる現象が発生したという証言もあります」
「それも同じだ。俺が倒れた後のことなら、俺には証言できない」
調査官の筆が動く。
「では、彼が魔獣をシイバへ呼び寄せた可能性については?」
トーマスは露骨に顔をしかめた。
「そんな話を裏付けるものを、俺は何一つ見ていない」
「否定されるのですか」
「違う。知らないと言ってる」
声を荒らげかけ、傷が痛んだ。
トーマスは一度息を整えた。
「俺が報告できるのは、意識を失うまでに見たことだけだ。シグは魔力を持たない準騎士だった。あの魔獣が現れた時も、村の人間を守ろうとしていた。そこから先に何があったのかは知らん」
「では、事件後に確認された現象については判断できないと」
「ああ。シグ本人に聞かなきゃ分からん」
騎士である以上、知っている事実を隠すわけにはいかない。
同時に、知らないことまで知っているように話すつもりもなかった。
◇
トーマスが知らなかった時間については、王国の調査が少しずつ空白を埋めていった。
生存者への聞き取り、焼け残った家屋の確認、魔獣との戦闘跡、死者と行方不明者の照合。
その過程で、トーマス自身も初めて知る事実が増えていった。
シグの右腕に、それまで存在しなかった黒い紋章が現れたという証言。
黒い魔獣が、シグの周囲で発生した異常な現象によって消滅したという証言。
さらに村の外ではゼルヴェナ帝国兵の遺体が複数発見され、その周辺には通常の戦闘では説明できない痕跡が残されていた。
地面や樹木、岩の一部が、切断面すら残さず消えている。
何が起きたのか、トーマスには分からなかった。
ただ一つ確かなのは、自分が知っていたシグには存在しなかった何かが、自分の意識を失った後に発現したということだった。
一方、住民から得られる証言は妙に少なかった。
特にシグについては、知っているはずの者まで「自分が見たこと以上は分からない」と繰り返した。
後になって、トーマスはその理由の一端を知った。
アルベルト・フリューゲンが、生き残った住民たちへ話していたのだという。
「見たことだけを話せ。分からないことまで、分かったように話す必要はない。今はそれがシイバのためだ」
事件について無責任な話が広がれば、残された住民まで疑いの目を向けられる。危険な土地だと見なされれば、復興にも影響する。
筋は通っていた。
だが、トーマスにはそれだけとも思えなかった。
「……アルベルトさんらしいな」
小さく呟き、それ以上は追及しなかった。
それでも調査そのものを止めることはできない。
複数の証言と現場に残された痕跡、さらに帝国兵の死傷を重ね合わせれば、王国が重大視するには十分だった。
やがてトーマスにも、王国側の方針が伝えられた。
シグ・フリューゲンを発見した場合、その身柄を確保する。
事情聴取に加え、発現した未知の紋章と能力について調査を行う。それが安全であると確認できるまで、自由な行動は認めない。
トーマスは、その決定を簡単には否定できなかった。
シグが理由もなく人を傷つけるような少年ではないことを知っている。
だが、報告にある力が本人の意思で制御できるものなのか、それだけは判断できなかった。
だからこそ、国家が放置できないという理屈は理解できた。
それでも、シグが拘束された後のことを考えると胸騒ぎがした。
未知の紋章を持ち、帝国兵の大量死との関係まで疑われている十七歳の少年が、普通の参考人と同じ扱いを受けるとは思えない。厳重な監視下に置かれ、何度も事情を聞かれ、能力を調べられるだろう。
もし、その状況でシグが追い詰められたら。
報告にある現象が本人にも制御できないものだったとしたら。
そこで何かが起きれば、今度こそ取り返しがつかない。
トーマスは額を押さえた。
自分はシグを信じている。
だが、自分が見たことさえない力まで安全だとは言えなかった。
だからこそ、今のシグに「王国へ戻れ」とは言えなかった。
◇
傷はまだ任務へ復帰できる状態ではなかった。
軍医からは引き続き療養を命じられ、トーマスは西方軍の職務から外れたまま待機していた。
そんな中、シイバ周辺で得られた証言から、シグが西へ向かった可能性があるという話を耳にした。
エルバ自由都市同盟。
その先でシイバや王国の動きを知ろうとするなら、人と情報が集まる都市へ向かう可能性は高い。確証はない。それでも、交易路と人の流れを辿れば、有力な候補は絞られる。
サヴァール。
王国の正式な捜索も、いずれそこへ及ぶ。
その夜、トーマスは決めた。
命令ではない。
上官にも告げなかった。
まだ傷の残る身体で馬を手配し、最低限の荷物だけを持ってサヴァールへ向かった。
シグを捕まえるためではない。王国に見つかる前に、一度だけ本人と話すためだった。
今は戻るな。
逃げろ。
その一言を、自分の口から伝えるためだった。
◇
サヴァールへ着いた頃には、馬の揺れで脇腹の傷が再び痛み始めていた。
それでも休んでいる時間はなかった。
王国方面から流れてきた話は、すでに傭兵たちの間にも広がっている。シグ・フリューゲンという名前まで知る者はまだ多くないようだったが、若い剣士を探している人間がいるという話を、トーマスは街へ入ったその日に耳にした。
王国の手がどこまで伸びているのかは分からない。
トーマスは人通りの多い街路を歩きながら、行き交う顔を一人ずつ確認した。
黒髪の少年を見かけるたびに目が向く。
違う。あの肩幅ではない。
また違う。あの立ち姿ではない。
焦りだけが少しずつ募っていく。
自分より先に王国側の人間が見つければ、シグはきっと話を聞こうとするだろう。
『俺から説明すれば、きっと分かってくれる』
あいつなら逃げない。やましいことなど何もないと思っているからこそ、疑われていると知れば、自分から説明しようとする。
それが分かるからこそ急がなければならなかった。
「間に合わなくなる前に、見つけないとな」
トーマスは足を速めた。




