第一話:新たな同行者/第四幕:背中を預けるには
「あの村には、黒い紋章を使う奴がいたらしい」
「そいつが全部やったんじゃないのか?」
シグは匙を置いた。木製の匙が皿の底を叩き、小さな音を立てた。
これ以上聞いても、新しい話が出てくるとは思えなかった。事実が増えるのではなく、知らない誰かの想像が足されていくだけだ。
「そろそろ出ましょう」
エルセリアが席を立った。エイリクも何も言わず、それに続く。
シグは最後に一度だけ奥の卓へ目を向けた。男たちはもう別の話をしていた。シイバのことなど、酒の肴の一つでしかなかったらしい。
三人は食堂を出た。
◇
大通りを離れ、人通りの少ない道へ入ってからも、シグはほとんど口を開かなかった。
エルセリアは何も聞かない。エイリクも同じだった。
二人が前を歩き、シグは少し後ろからついていく。
頭の中では、さっき聞いた言葉が何度も繰り返されていた。
帝国が村を襲った。
王国が危険な紋章を試した。
黒い魔獣を操っていた。
そいつが全部やった。
「……何も知らないくせに」
気づけば、口に出していた。
エルセリアが振り返る。
シグは足を止めた。
「あいつらは何も知らない」
一度言葉にすると、抑えていたものが続いた。
「セグラヴァスが何をしたのかも、あの日シイバで何があったのかも。アンナたちがどうやって死んだのかも知らない。それなのに、帝国が襲ったとか、俺が魔獣を操ってたとか……勝手なことばかり言って」
誰かを責めたところで意味がないことは分かっている。それでも腹が立った。
自分たちが必死に生き延びようとしていた時間が、知らない場所で好き勝手に作り替えられていく。
エイリクが腕を組んだ。
「そりゃそうだ」
シグが顔を上げる。
「あいつらは見てない」
あっさりとした答えだった。
「だから知らん。それ自体はどうしようもない」
「だったら、知らないことを勝手に――」
「じゃあ、お前は全部知ってるのか?」
シグの言葉が止まった。
エイリクは責めるような口調ではなかった。
ただ、答えを待っている。
「俺は……」
知っている。
そう答えようとして、できなかった。
セグラヴァスがどこから現れたのか知らない。
なぜシイバを襲ったのかも、途中から自分を狙い始めた理由も分からない。
《ヴォイド・コード》が何なのか。
なぜ自分に宿っていたのか。
魔力がなかったはずの身体に、なぜ突然あれほどの力が現れたのか。
何一つ、答えを持っていない。
そして帝国兵についてもそうだった。
噂は間違っている。自分は帝国兵を殺そうとしたわけではない。
だが――死んだ。
自分の紋章が暴走した後、何人もの帝国兵が倒れていた。
「……全部は、知らない」
ようやく出た言葉は、それだった。
エイリクが頷く。
「なら、そこからだな」
「でも、俺がシイバを襲ったわけじゃない」
「それとこれとは別だ」
エイリクは即座に返した。
「お前が魔獣を呼んで村を襲わせたって話と、お前の力で帝国兵が死んだって話は同じじゃない。前者が嘘だからって、後者までなかったことにはならん」
シグは反論できなかった。
「わざとやったかどうかも大事だ。だが、わざとじゃなければ起きたことが消えるわけでもない」
厳しい言葉だった。
けれど、不思議と責められているようには感じなかった。
エイリクは、シグが悪いと言っているのではない。
起きたことを、起きたこととして見ているだけだ。
「エルセリアも、そう思うのか?」
「ええ」
彼女は迷わなかった。
「少なくとも、私が見た範囲ではあなたがシイバを襲ったという話に根拠はないわ。でも、帝国兵の死にあなたの紋章が関係している可能性は高い」
シグは右腕へ目を落とした。
「だから調べるのよ。分からないまま、自分に都合のいい答えを選ばないために」
少し前なら、その言葉を聞くことさえ怖かったかもしれない。
今も怖くないわけではない。
だが、知らないままの方がいいとは思わなくなっていた。
エイリクが壁へ背を預ける。
「それで、お前はどうしたい?」
「どうって?」
「噂を聞いて腹が立った。それは分かった。その先だ」
シグはすぐには答えられなかった。
「あの噂が違うって……証明したい」
「何が違う?」
また言葉に詰まる。
全部、と言いかけてやめた。
全部が間違っているわけではない。
黒い紋章。
若い男。
帝国兵の死。
少なくとも、その断片は事実に触れている。
シグは考えた。
自分が本当に知りたいものは何なのか。
「……俺のことが、どこまで伝わってるのか知りたい」
エルセリアとエイリクが黙って聞いている。
「王国が何を知ってるのか。帝国から何が伝わってるのか。俺が今、外で何者だと思われてるのか」
一度息を吸う。
「それと、シイバで何が起きたことになってるのかも知りたい。噂じゃなくて、分かる範囲でいいから」
エイリクは何も言わず、しばらくシグを見ていた。
「……なんだよ」
「いや」
エイリクは組んでいた腕を解いた。
「都合の悪いことまで全部噂のせいにするなら、ここで別れた方がいいと思ってた」
シグは眉を寄せる。
「試してたのか?」
「少しな」
「いつから?」
「最初からだ」
あっさり答えられた。
「得体の知れん力を持ってて、しかも自分で止められない。そんな奴と一緒に旅をするんだ。当然だろ」
シグは返す言葉がなかった。
「力の方は信用してない」
エイリクはそう言ってから、わずかに口元を緩めた。
「だが、お前がどんな奴かは少し分かった」
「それは、信用できるってことか?」
「そこまでは言ってない」
「なんだよ、それ」
「今日会ったばかりだろ」
それを言われると、シグにも返せなかった。
エルセリアが二人のやり取りを見届けてから、口を開いた。
「王国と帝国については私が当たるわ。少し時間はかかるでしょうけど、使えそうな伝手がある」
「俺はギルドだな」
エイリクが続けた。
「王国側から来た傭兵や護衛を当たる。仕事帰りの連中なら、街道や軍の動きも多少は知ってる」
シグはエイリクを見る。
「手伝ってくれるのか?」
「ここまで聞いて、知らん顔もできんだろ」
「でも、そこまでしてもらう理由は――」
「あるさ」
エイリクはエルセリアへ視線を向けた。
「俺はこいつと合流するために十五日もここで待ってたんだ。今さら一人で別の場所へ行く理由もない」
「仕事を三つも片づけていた人がよく言うわね」
「待ってたことには変わりない」
「はいはい」
また、このやり取りだ。
シグは二人を見た。
自分の知らない時間を共有している二人。
そこへ自分が後から加わったことは変わらない。
けれど、今は少しだけ意味が違って見えた。
エイリクが壁から背を離す。
「噂なんざ勝手に広がる。全部止めようとしたって無駄だ」
シグは黙って聞いた。
「だが、これからお前が何をするかまで、そいつらに決めさせる必要はない」
それだけ告げると、エイリクは歩き出した。
シグはその背中を見た。
今日まで名前すら知らなかった男だ。仲間と呼ぶにはまだ遠い。
それでもこれからしばらく、同じ道を行くのだということだけは、確かな事実だった。
エルセリアがエイリクの後へ続いた。
シグは少しだけ間を置いてから、二人の後を追った。




