第一話:新たな同行者/第三幕:外の世界のシイバ
「魔獣を倒した奴がいるらしい」
エイリクは続けた。
「そいつが、そのあと帝国兵まで殺したらしい」
シグは反射的に身を乗り出した。木製の卓がわずかに軋む。
「どこまで広まってるんだ? そいつのことも何か――」
「俺が聞いたのも又聞きだ。それ以上は知らん」
エイリクは手にしていた木杯の水を飲み干した。
「話していた連中も、自分で見たわけじゃない。今のところは噂だ」
シグは唇を結んだ。
帝国兵が死んだこと自体は事実だった。あの場から逃げ延びた兵士もいる。ならば、自分のことが伝わっていても不思議ではない。
「ここで考えていても仕方ないわ」
エルセリアが立ち上がる。
「外でも少し聞いてみましょう。別の経路から来た話と比べたい」
三人は傭兵ギルドを出た。
◇
昼を過ぎた頃、三人は大通りから一本外れた食堂に入った。
宿泊客だけでなく、商人や旅人も利用する店らしい。入口近くには荷物を積んだ背負子が並び、奥の卓では護衛らしい武装した男たちが遅い昼食を取っている。
煮込み料理と焼いた肉の匂いが漂い、食器の触れ合う音にいくつもの会話が重なっていた。
三人は壁際の卓を選んだ。
注文した料理を待っていると、隣の卓から聞き覚えのある地名が聞こえた。
「だから、東へ行くなら今は南へ回った方がいい。シイバの近くはまだ危ない」
話しているのは二人の商人だった。一人が卓上に広げた地図を指でなぞっている。
「魔獣が残ってるのか?」
「知らん。ただ、王国軍が周辺を調べてるって話だ。帝国の連中も動いてるらしい」
「帝国が村を襲ったんだろ?」
その言葉に、シグの指が止まった。
「違う。帝国が襲ったんじゃ――」
向かいに座るエルセリアと目が合った。
彼女は何も言わなかった。
それだけでシグは続きを飲み込んだ。
商人たちはこちらを見ていない。
だが、訂正すれば理由を聞かれる。なぜ知っているのか。シイバにいたのか。何を見たのか。
答えを重ねれば、最後には自分へ辿り着く。
「いや、帝国軍は魔獣を追ってたって聞いたぞ」
別の男が会話へ割り込んだ。
「王国が何かやらかしたんじゃないのか? 危ない紋章を試してたって話もある」
「どこで聞いたんだ、そんなの」
「昨日来た行商人だよ」
「なら当てにならんな」
笑い声が上がった。
シグは黙ったまま卓を見つめた。
帝国が襲ったという者がいれば、魔獣を追っていたという者もいる。王国が紋章の実験をしていたという話まで出てきた。
同じシイバの話をしているはずなのに、どれも違う。
エイリクから噂の話を聞いた時には、ここまで実感がなかった。
自分が見たものとは無関係に、知らないシイバが幾つも生まれている。それを黙って聞いていることが、思った以上に苦しかった。
「それより、街道はいつ開くんだ?」
商人の関心はもう別のところへ移っていた。
「東方との荷が止まったままじゃ商売にならん」
「死者も相当出たらしいからな。村だけで何十人だったか」
「騎士団もほとんど全滅したって聞いたぞ」
何十人。
その言葉が耳に残った。
アンナがいた。
ヨハンがいた。
騎士団にも、顔を知っている者がいた。朝になれば挨拶を交わした村人も、店先で何度も見かけた人間もいる。
それが今は、何十人という言葉一つに収まっていた。
話している男たちに悪意があるわけではない。
彼らにとっては、知らない土地で起きた事件なのだ。
分かっていても、胸の奥に鈍い痛みが残った。
「シグ」
エイリクが低い声で呼んだ。
見ると、彼は隣の卓ではなくシグを見ていた。
「もういいんじゃないか」
シグはしばらく答えなかった。
ここを出れば聞かずに済む。
知らないふりをして、何も考えないこともできる。
だが、それでは何も分からないままだ。
「……いや。聞く」
エイリクは一度だけシグを見据え、それ以上は何も言わなかった。
やがて運ばれてきた料理へ手をつけながら、三人は周囲の会話を拾い続けた。
話は店のあちこちから断片的に聞こえてくる。
シイバを襲った魔獣。
王国軍と帝国軍。
そして、魔獣を倒したという正体不明の人物。
「王国の騎士だったって聞いたぞ」
「俺は帝国の脱走兵だって聞いた」
「違う違う。シイバに住んでた魔術師だ」
奥の卓で、旅装の男たちが酒を飲みながら話していた。
「そもそも人間なのか? 黒い魔獣を操ってたって話もあるぞ」
「じゃあ、そいつが村を襲わせたのか?」
「知らねえよ。そういう話もあるってだけだ」
あまりのでたらめさに、シグは腹を立てるより先に呆れた。
ところが、次の言葉でその感覚が消えた。
「若い男だったらしいぞ」
シグは顔を上げなかった。
「若い?」
「生き残った奴から聞いたって商人が言ってたな。黒い光みたいなものを使ったとか」
右腕が急に重く感じられた。
袖の下にある紋章を意識する。
エルセリアを見ると、彼女もすでに会話へ耳を傾けていた。
「黒い光って何だよ」
「そこまでは知らん。右腕に黒い紋章があったとも言ってたな」
今度はエイリクの表情も変わった。
シグは卓の下で右腕を押さえた。
黒い紋章。
そこまで伝わっている。
思わず店内を見回しそうになり、第一幕でエルセリアに言われたことを思い出して止めた。顔は動かさず、視線だけを巡らせる。
誰もこちらを見てはいない。
それでも、さっきまでとは店の空気が違って感じられた。
「……生き残った帝国兵からか?」
シグが声を潜める。
「可能性はあるわ」
エルセリアも小声で答えた。
「でも、まだ決めつけない方がいい。別の目撃者から伝わった可能性もある」
「若い男に、黒い力、右腕の紋章か」
エイリクが呟く。
「でたらめだけなら笑って聞けるが、これはまずいな」
シグにも分かった。
そこまで一致するなら、ただのでたらめではない。誰かが実際に見たものが、噂の中に混じっている。
「どうして、こんなことになるんだ」
シグの問いに、エイリクは少し考えてから答えた。
「誰も全部を見てないからだろ」
シグが顔を上げる。
「見た場所も違えば、聞いた相手も違う。次の奴に話す頃には、分からなかったところまで話が出来上がってる」
エイリクは奥の卓へ目をやった。
「魔獣と妙な奴が同じ場所にいた。それだけで、いつの間にかそいつが魔獣を操ってたことになる。そんなもんだ」
シグの脳裏に、エルセリアの言葉が蘇った。
――分からないところを勝手な答えで埋めるよりはね。
あの時は、セグラヴァスについて話していた。
分からないことは、分からないままにしておく。それがエルセリアの考え方だった。
だが今、シグの耳に入ってくる話は違う。
誰も見ていないところが埋められ、離れていた出来事が繋がっている。それが事実だったかのように、また次の誰かへ語られていく。
奥の卓から、また声が聞こえた。
「あの村には、黒い紋章を使う奴がいたらしい」
「そいつが全部やったんじゃないのか?」
シグの匙が止まった。
右腕の紋章が服の下にある。
誰にも見えていないはずなのに、剥き出しになったような気がした。
エルセリアも、エイリクも何も言わない。
シグも口を開かなかった。
魔獣を倒した者。
帝国兵を殺した者。
それだけだったはずの人間が、知らない者たちの言葉を渡るうちに、シイバを壊した者へ変わり始めていた。




