第一話:新たな同行者/第二幕:エイリク
傭兵ギルドの中は、外から想像していたよりも広かった。
正面には長い受付台があり、その向こうで数人の職員が忙しなく書類を捌いている。右手の壁際には大きな掲示板が据えられ、何十枚もの紙が隙間なく貼られていた。その前には武装した男女が集まり、紙を剥がす者もいれば、腕を組んで報酬額を見比べている者もいる。
反対側には酒場を兼ねた休憩所があり、朝だというのにすでに酒を飲んでいる者までいた。
外から聞こえていた喧騒は、扉を一枚隔てただけでさらに濃くなる。椅子を引く音、硬貨が卓上を転がる音、受付を急かす怒鳴り声。酒と汗、革、防具へ塗られた油の臭いが混ざり合い、開け放たれた窓から入る風でも消し切れていない。
シグは入口で立ち止まりそうになった。
王国騎士団の詰所とは、まるで違う。
「邪魔になるわよ」
先を歩くエルセリアに言われ、慌てて後を追う。
受付の前を通りかかった時、一人の傭兵が革袋を受け取っていた。男はその場で中身を卓上へ広げ、銀貨を一枚ずつ数えている。
「二十八、二十九……三十。合ってる」
「では、こちらへ受領の署名を」
その隣では別の男が職員へ声を荒らげていた。
「話が違うだろ。護衛だけって契約だったぞ。なんで街道に魔獣が出た分までこっち持ちなんだ」
「依頼書には『道中の危険への対処を含む』と記載されています」
「そんな書き方で分かるか!」
「署名されていますので」
職員は顔色一つ変えない。
シグは思わず振り返った。
「……あれで成立するのか」
「契約書に署名しているならね」
「騎士団なら命令が出て、それで終わりなのに」
「ここでは依頼する側と受ける側が条件を決める。ギルドはその仲介役よ」
シグは掲示板へ目を向けた。
商隊護衛。要人警護。国境警備。紛争地への戦力派遣。隊商路の盗賊排除。
紙によって報酬も日数も違う。必要人数や推奨される装備まで書かれたものもあった。
剣を持つ人間がいて、その力を必要とする人間がいる。
そこまでは騎士団と変わらない。
違うのは、その間に命令ではなく金と契約があることだった。
「面白い?」
エルセリアが聞いた。
「面白いっていうか……よくこれでまとまるなと思って」
「まとまらないからギルドがあるのよ」
先ほど怒鳴っていた男を顎で示す。
「全部が綺麗にいくなら、仲介する人間なんて必要ないでしょう」
「なるほど」
答えてから、シグはもう一度周囲を見た。
受付で依頼を受け、契約を交わし、終われば報告し、報酬を受け取る。その金で食事をし、武具を直し、次の仕事を探す。
街の外で剣を振るっている時間だけが、傭兵の生活ではないらしい。
その間にも、エルセリアは内部を見渡していた。
「いないのか?」
「見える範囲にはね」
「こんなところで探せる?」
「見れば分かるわ」
「そんなに目立つのか?」
エルセリアがシグを見る。
「かなり」
ほどなく、その意味が分かった。
奥の受付で、周囲の人間より頭二つ近く抜けた人影が立っていた。
最初に目に入ったのは、その背丈だった。
大きい。
シグが知る中でもかなり大柄な男たちより、さらに一回り大きい。その巨体を覆う金属製の胸当ても、見慣れた防具とは明らかに寸法が違った。腕には使い込まれたガントレットが装着されている。脚にも金属製の防具を着けているが、鋭い爪を備えた大きな足先だけは剥き出しだった。
銀色の体毛に覆われた頭部には尖った耳が立ち、顔つきも人間より狼に近い。腰の後ろからは太い尾が伸びている。
獣人。
背には大きな斧。
刃には細かな傷がいくつも走り、柄もところどころ色が変わっている。鎧も同じだった。磨かれてはいるが新品のような光沢はなく、胸当てには打撃を受けたらしい浅い窪みが残っていた。
手入れを怠っているのではない。
使って、直して、また使っている。長く戦場を渡り歩いてきたことが、それだけで分かる装備だった。
その狼人は受付の職員と話していた。
「北側にはいなかった。足跡も途中で消えてる」
低く、よく通る声だった。
「では、討伐ではなく追跡不能として処理します」
「それでいい。依頼主にもそう伝えてくれ。あの辺りは雨で地面が崩れてる。人数を増やして探したところで、死人が出るだけだ」
「承知しました。こちらが今回の報酬です」
革袋を受け取った狼人は、中身を一度だけ確認した。
先ほどの傭兵のように一枚ずつ数えることはせず、袋の口を閉じて腰へ下げる。
その横を通った男が、狼人の腕を軽く叩いた。
「エイリク、今夜空いてるか?」
「仕事次第だ」
「またそれかよ」
「お前の酒に付き合って、翌朝まともに動けた試しがない」
「それはお前も飲むからだろ」
「だから仕事次第なんだろ」
男は笑いながら去っていった。
シグは隣のエルセリアを見る。
彼女はもう狼人の方へ歩き出していた。
「エイリク」
銀色の耳がぴくりと動いた。
狼人が振り返る。
青い瞳がまずエルセリアを捉え、それから僅かに細められた。
「遅かったな」
「待った?」
「十五日」
「ちゃんと数えてたのね」
「その間に仕事を三つ片づけた」
「暇ではなかったみたいね」
「おかげさまでな」
それだけだった。
久しぶりに会ったはずなのに、無事を喜ぶ言葉もない。
それでもエイリクの肩から僅かに力が抜けたことに、シグは気づいた。
エルセリアも同じだった。
「星暦院で手間取ったのか?」
「それもあるわ。調べたいものが増えたから」
「お前が調査先を増やすのはいつものことだろ」
「今回は予定通り終わるつもりだったのよ」
「信用できんな」
「失礼ね」
エルセリアが笑う。
そのやり取りに、シグは妙な居心地の悪さを覚えた。
嫌なわけではない。ただ、自分の知らない時間が二人の間にあることが、初めてはっきり見えた。
エルセリアはシイバで出会った人だ。ここ数日、ほとんど一緒に行動してきた。それでも当然、彼女の人生がシグと出会ったところから始まったわけではない。
エイリクは、そのシグが知らない時間の側にいる。
「それで」
エイリクの視線が動いた。
「そいつは誰だ?」
青い瞳がシグへ向けられる。
近くで見るとさらに大きく、シグは自然と顎を上げることになった。
エイリクは何も言わず、シグを上から下まで見る。
顔。肩。腰の剣。立ち方。
鼻先が小さく動き、最後に視線がシグの右手で止まった。
「シグ・フリューゲン」
エルセリアが紹介した。
「シイバで会ったの。しばらく一緒に行動する」
「しばらく?」
「説明すると長いわ」
「そうか」
エイリクはシグへ向き直った。
「エイリク・ブラガ=ヴォルフレイだ」
「シグです」
反射的にそう返す。
エイリクはシグをもう一度見た。
「騎士か?」
シグは一瞬、答えに詰まった。
「どうして?」
「立ち方に癖がある。剣も吊るしてるだけじゃない。手もそうだ」
言われて、自分の右手を見る。
「それに、その歳でその身体なら遊びで鍛えてるわけじゃないだろ」
「……準騎士だった」
口にしてから、引っ掛かった。
だった。
つい数日前まで、自分はリューン王国騎士団西方軍の準騎士だった。
正式に除名されたわけでも、辞めたわけでもない。
それでも、もう騎士団へ戻って朝の訓練に参加する自分を想像できなかった。
エイリクはその言葉に何かを感じたようだったが、問い返さなかった。
「なるほどな」
それだけ言う。
エルセリアが近くの空いている卓へ目を向けた。
「少し座れる?」
「立ち話じゃ済まんのか」
「長くなるって言ったじゃない」
三人は壁際の卓へ移った。
エイリクは斧を手の届く位置へ立てかけて椅子に腰を下ろす。椅子が小さく見えた。
エルセリアは向かいへ座り、シグもその隣に座る。
「シイバで何があった?」
エイリクが尋ね、エルセリアが話し始めた。
シイバで起きたことを、自分が見たものとシグから聞いた話に分けながら、順を追って説明していく。
シグにとっては、どれもまだ記憶から遠ざけられる出来事ではなかった。だから、エルセリアが説明している間、ほとんど口を挟まなかった。
エイリクも途中までは黙って聞いていた。
だが、話が黒い魔獣へ及んだところで口を開く。
「待て。そいつは普通の魔獣だったのか?」
「いいえ」
エルセリアの声が少し低くなる。
「少なくとも、私は同じような魔獣を知らない。シグから聞いた限りでは、既知の魔獣とはかなり違う」
「倒したのは?」
エルセリアがシグを見る。
エイリクもそちらを見る。
「……俺らしい」
「らしい?」
「自覚がないんだ」
エイリクの眉間に僅かに皺が寄った。
エルセリアが続きを引き取る。
「シグには、それまで紋章がなかった。魔力そのものも存在しなかったの」
「魔力が?」
「ええ」
今度は明確に、エイリクの目つきが変わった。
「それが魔獣との戦闘中に、突然発現した」
「何の紋章だ」
「分からない」
短い沈黙が落ちた。
エイリクはエルセリアを見た。
「お前にも?」
「分からないわ。《ヴォイド・コード》というのも、便宜上そう呼んでいるだけ」
その答えの方が意外だったらしい。
エイリクは腕を組み、椅子の背へ体重を預けた。
「続けろ」
エルセリアは帝国の分隊が現れたこと、その後シグの紋章が再び異常な反応を起こしたことを説明した。
帝国兵たちが倒れていた光景を思い出し、シグの腹の奥が重くなる。自分が何をしたのかは分からない。ただ、結果だけは残っていた。
「死者は?」
エイリクが聞く。
「出たわ」
「何人だ」
エルセリアが答える。
エイリクの視線がシグへ戻った。
さっきまでとは違う。
敵意ではない。
だが、明らかに見定められている。
シグはその視線を知っていた。
シイバで村人たちから向けられたものとは違うはずなのに、身体が勝手に思い出す。
呪い。
あの言葉まで蘇った。
右腕を隠したくなる。
だが、動かなかった。
「制御できるのか?」
エイリクが聞いた。
「……できない」
「もう一度起きる可能性は?」
「分からない」
「なら危険ではあるな」
即答だった。
シグの胸が僅かに沈む。
予想していたはずなのに、実際に言われると重かった。
「エイリク」
エルセリアが口を挟もうとする。
「待て」
エイリクはシグから目を逸らさない。
「お前自身は、そいつを使って帝国兵を殺そうとしたのか?」
「違う」
今度はシグも即答した。
「殺したかった?」
「……あの時は混乱してた。でも、殺そうなんて思ってない」
エイリクはしばらく黙っていた。
青い瞳がシグを見ている。
やがて鼻から短く息を吐いた。
「なら、その話はそこからだ」
「……え?」
「力が危険なのと、お前が危険な奴かどうかは別の話だろ」
あまりに普通の口調だった。
「ただし」
エイリクが太い指を一本立てる。
「次に暴れそうになったら先に言え」
「分かるなら俺もそうしたいけど」
「じゃあ俺の近くでは暴れるな」
「無茶言うなよ」
「俺も死にたくない」
本気なのか冗談なのか分からない。
シグが返答に困っていると、エルセリアが口元を押さえた。
「笑うところか?」
「いいえ」
「笑ってるだろ」
「気のせいよ」
エイリクが鼻を鳴らした。
そのやり取りを見ながら、シグはまだ少し戸惑っていた。
恐れないわけではない。
危険ではないと言ってくれたわけでもない。
むしろ、危険だとはっきり言われた。
それなのに、不思議と村で向けられた言葉ほど苦しくなかった。
この男は、力だけを見て決めているわけではない。
乱暴そうで、遠慮もない。
けれど、決めつけもしない。
それが、シグがエイリクという男へ抱いた最初の印象だった。
「それで、今後は?」
エイリクがエルセリアへ聞く。
「まずシグの紋章を調べる。そのためにいくつか当たりたい場所がある」
「帝国は?」
「追ってくると考えた方がいい」
「だろうな」
エイリクは驚かなかった。
「東から来た連中の話も増えてる」
シグが顔を上げる。
「東?」
「ここ数日、王国側で妙な噂が流れてる。最初は国境寄りで大きな事件があったって程度だった」
エイリクは卓上へ肘をついた。
「魔獣が街道近くまで出たとか、村が一つ消えたとか、王国騎士と帝国兵がやり合ったとか。話す奴によって中身が違う」
シグの指が膝の上で止まる。
「それが昨日あたりから、地名まで付くようになった」
エイリクは一呼吸置いて、シグを見据えて言った。
「シイバだ」
シグは何も言えなかった。
その反応を見て、エイリクがエルセリアを見る。
「シグの故郷よ」
しばらく、エイリクは黙っていた。
もう一度シグを見る。
今度の視線は、先ほど紋章について尋ねた時とは違っていた。
「……そうか」
それ以上は言わなかった。
慰めの言葉もなかった。
シグには、その方がありがたかった。
「でも、どうしてもうここまで?」
シグは尋ねた。
シイバを出てから、まだそれほど経っていない。
「人が動くからだ」
エイリクが答える。
「傭兵、商人、行商人、護衛、御者。街道を使う奴はいくらでもいる。一人が次の街で話せば、聞いた奴がまた別の場所で話す」
「そんなに早く?」
「正しい情報だけなら、もっと遅い」
エイリクは周囲を顎で示した。
「だが、噂なら風より速い。真偽を確認する必要がないからな」
近くの卓では、四人の傭兵が依頼書を囲んで話している。その後ろを商人らしい男が通り、受付では別の一団が職員へ報告をしていた。
人が入り、人が出ていく。
その一人一人が、別の土地から何かを持ってくる。
品物だけではない。話もだ。
シイバで起きたことは、もう自分たちだけの出来事ではない。誰かが話し、別の誰かが聞き、形を変えながら知らない土地へ広がっている。
「どんな噂なんだ?」
シグが聞いた。
エイリクはすぐには答えなかった。
青い瞳が一度エルセリアへ向く。
彼女の表情から何かを確かめるように見えた。
「大半はくだらん話だ。魔獣が百匹出たとか、帝国が村を焼いたとか、王国軍が全滅したとか。聞くたびに話がでかくなってる」
「……そうか」
「ただ」
エイリクの声が変わった。
「妙な話も混じってる」
シグは顔を上げた。
「妙な話?」
エイリクは少し言葉を選び、
「魔獣を倒した奴がいるらしい」
シグの呼吸が止まった。
「そいつが、そのあと帝国兵まで殺したらしい」




